映画館として
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1953年(昭和28年)3月に映画館に転向し、「進富映画劇場」に改称した。長野県飯田市出身の堀保麿が、帝国座支配人の娘・水野きみと共同経営の形で開館した。その後、「伊勢東映」(1956年〔昭和31年〕改称)や「レック」(1983年〔昭和58年〕改称)に改称しながら映画館として続いてきた。以後は代々水野家が運営を行っている。『ゴーストバスターズ』が大ヒットした1984年(昭和59年)の時点では、伊勢レックIと伊勢レックIIの2館体制で、ともに平屋建てであり、伊勢レックIは木造で200人収容、伊勢レックIIは鉄筋造で120人収容であった。ほかに伊勢市内には伊勢世界館(別館は第二世界館)とパール劇場(別館は伊勢シネマ)の3館の映画館が営業していた。 1995年(平成7年)になるとパール劇場は既に姿を消し、伊勢市の映画館は伊勢レックと世界館の2館となった。伊勢レック1・2ともに鉄筋造となり、伊勢レック1は156人収容、伊勢レック2は80人収容に縮小した。1997年(平成9年)11月24日に都合により一時休館となった。再開までの期間、建物は有限会社世界館に貸し出されて「伊勢エクラン1・2」として運用され、経営者は愛媛県で非常勤の学芸員となった。 2002年(平成14年)7月、屋号を元の「進富座」に戻し、映画館を再開した。2006年(平成18年)には別館も開いた。2010年(平成22年)1月23日、地元でロケーション撮影された映画『半分の月がのぼる空』の試写会が行われた。同年3月27日からは先行上映が始まった。 2011年(平成23年)に発生した東日本大震災で岩手県の一関シネプラザが被災した際には、復興に協力した。2012年(平成23年)には日本放送協会の取材を受け、同年5月30日に同局の番組『クローズアップ現代』で「フィルム映画の灯を守りたい」の題で取り上げられた。2012年(平成24年)末から長期休館が続き、三重県内外のファンから先行きが注視されたが、2013年(平成25年)1月26日から「進富座第二幕」として再開した。2013年(平成25年)8月末、デジタル映画の上映設備を導入した。フィルム映画用の映写機は旧作上映のために2台残した。
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映画館として
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2003年(平成15年)2月、名演小劇場は1スクリーン(サロン1)を有する映画館としてリニューアルオープン。劇場時代、名演会館ビルの1階は喫茶店と事務所に使用されていたが、2004年(平成16年)には49席のスクリーン(サロン2)に改装された。名演小劇場はサロン1とサロン2の2スクリーン体制となり、またサロン1も改装されて座席数は105席に減少。この年から映画上映を興行の中心に据え、本格的な映画館として再出発を切った。他の映画館が上映に二の足を踏んでいた是枝裕和監督の『誰も知らない』を引き受けると、第57回カンヌ国際映画祭で主演の柳楽優弥が最優秀主演男優賞を受賞したこともあって、ミニシアターとしては異例の2万人近くの観客を動員する大ヒットを記録。現在の興行の中心は映画上映だが、年7回は演劇の公演を行っている。
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