映画館と観客
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 06:56 UTC 版)
制作・配給部門とは違い、映画館は国有化されなかった。ウーファ系列の映画館を除き、1939年にはいわゆるアルトライヒ(ドイツ語版)(「旧帝国」、オーストリアとズデーテンラント併合以前のドイツ領)にあった5,506館の大部分は、民間の中小企業によるものであった。 しかし個々の映画館の自由には、法律や帝国映画院の指令によって大きな制限が課されていた。主作品の前に上映する文化映画やドキュメンタリー映画、ニュース映画が指定されていたのである。また特定の祝日には格式ある作品の上演が義務付けられていた。外国映画上映に関する法律(1933年6月23日、Gesetz über die Vorführung ausländischer Bildstreifen) により、政府は外国映画の上演を禁止する権限を有していた。すでにヴァイマル共和国時代から外国映画の輸入には数量制限があり、第二次世界大戦開始後は、特定の国からの映画輸入が初めて全面禁止された。例えば1941年からはアメリカ映画がドイツの全映画館で上映禁止とされた。 ナチのメディア政策の全ては、満員の映画館で劇映画やニュース映画を観る個々人に与える感情面での効果に注がれていた。兵舎や職場でも映画上映会が催された。集団での経験は、特に青少年の観客では、プロパガンダ効果が強まった。映画によるプロパガンダをあらゆる年齢層に及ぼすため、1934年2月16日施行の映画法では6歳未満の映画館への入場禁止規制が廃止された。映画館はヒトラーユーゲント向けの、いわゆる青少年映画時間(ドイツ語版)に利用された。農村部に映画プログラムを供給できるよう、ナチ党全国宣伝指導部は、Tonfilmwagen(「映画車」)を備えていた。これは例えば地方の食堂などのホールで映画上映会を催すために必要な機材一式を装備したものであった。こうして午後にはヒトラーユーゲント向け、夕方からは一般市民向けの映画上映会が行われた。この移動映画館のおかげで、ナチのプロパガンダ映画は、これまで一度も映画館を訪れたことのない人々をも大規模にその射程に収めたのである。 失業率の低下と生活水準の向上により、ドイツの映画館の入場者数は年々増加した。1939年には6億2,400万枚のチケットが販売され、1944年には11億枚に達した。米国を除けば、ドイツよりも映画館の客席数が多い国は地球上に存在しなかった。学校や劇場が閉鎖された中でも、困難な状況にもかかわらず、映画館の営業は戦争終結まで維持された。例えばベルリンでは1944年になっても映画館の防衛のために対空砲部隊が派遣されていた。連合軍の空襲の激化で急増する負傷者を収容するために映画館の救護所や野戦病院への転用を検討すべき状況においても、その多くは政治的圧力により転用されることはなかった。1944年9月1日から全劇場が上演禁止となっても、映画館では上映が継続された。その結果、一部の劇場は映画館に転用された。ウィーン・フォルクスオーパーは、10月6日から数ヶ月間、市内で二番目に大きな映画館であった。
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