戦後・4館体制へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:46 UTC 版)
「池袋日勝映画劇場」の記事における「戦後・4館体制へ」の解説
第二次世界大戦後は、空襲で多くの映画館を失った簱興行所有の映画館のなかでももっとも早く、1946年(昭和21年)10月に復興・開館している。Goo地図にある1947年(昭和22年)の航空写真を見ると、池袋アバン座や池袋東洋映画劇場(のちの池袋東急、池袋1丁目750番地)、池袋日活映画劇場(池袋1丁目753番地)といった並びの映画館はあるが、北側はほとんど更地のような状態であった。当時の同館は、観客定員数705名の大きな映画館であり、邦洋混映館であったが一番館(封切館)、支配人は林幹人であった。 1951年(昭和26年)12月には、同館地下に観客定員数275名の日勝地下劇場を開館、これを洋画特選の映画館とし、観客定員数705名の日勝映画劇場のほうは、大映および新東宝の封切館となった。発足以来東宝の配給ラインに製作物を供給してきた新東宝は、1950年(昭和25年)3月から自主配給を開始しており、当時の新聞広告によれば、日勝映画劇場では、1953年(昭和28年)2月12日には『名月赤城山』(監督冬島泰三)『三太頑張れッ!』(監督井上梅次)を、同年3月19日には『右門捕物帖 からくり街道』(監督並木鏡太郎)を、一斉封切りとともに公開している。 1956年(昭和31年)、通りの反対側の土地を駐車場「栄真パーキング」として営業する。同駐車場は1983年(昭和58年)12月に設立された栄真(代表・簱栄一郎)が経営を引き継いだ。全国の映画館数がピークを迎えた1960年(昭和35年)前後には、東に隣接して建物を新築、映画館を4つに増やすとともに、名称を変更して興行系統も編成しなおしている。従来の観客定員数705名の日勝映画劇場を池袋松竹劇場と改称して松竹の新作上映館とし、池袋日勝映画劇場は観客定員数339名の規模に縮小して東宝および大映作品を上映、池袋日勝地下劇場(観客定員数277名)は従来通り洋画特選の上映館、地下にもうひとつ新たに池袋日勝文化劇場(観客定員数270名)を新設して日活作品の上映館とした。こうして、4館体制が確立された。1963年(昭和38年)には、池袋松竹劇場を池袋スカラ座と改称、これを東宝の洋画興行チェーンである「TY白系」に興行系統を変え、その他3館は従来通りとした。このとき同社が経営する五反田の五反田劇場は「TY紅系」になった。 1971年(昭和46年)には、大映が倒産し、日活が一般映画から成人映画(日活ロマンポルノ)に製作・配給を切り替えており、同4館の興行系統にも影響が出ている。東宝洋画TY系の池袋スカラ座、洋画特選の池袋日勝地下劇場は変わらないが、池袋日勝映画劇場は東宝および松竹の上映館に切り替わり、池袋日勝文化劇場については観客定員数175名に縮小し、東映および日活の旧作上映館に変わった。その後1985年(昭和60年)にシネマサンシャイン池袋と池袋ジョイシネマ(現:池袋HUMAXシネマズ)が開業すると、日勝映画劇場と日勝文化劇場は主に丸の内ピカデリーや東京劇場で上映される邦画・洋画の上映館へとシフトしていった。 1995年(平成7年)、4館ともすべて閉館した。閉館後は再開発に入り、2007年(平成19年)、同社子会社の簱保全が「簱保全池袋ビル」を竣工、「LABI1池袋」(現在の「ヤマダ電機IKEBUKUROアウトレット・リユース TAX FREE館」)が入居して同年7月13日に開店した。「栄真パーキング」(経営・栄真)はのちに閉鎖、2014年(平成26年)8月に「栄真東池袋1丁目ビルWACCA」(地上8階・地下4階建)が竣工する。
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