戦後~1964年(昭和39年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:01 UTC 版)
「減反政策」の記事における「戦後~1964年(昭和39年)」の解説
戦後の食糧難は深刻を極め、1945年(昭和20年)10月の東京・上野駅での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。だが、米は引き続き食糧管理制度に基づく政府の固定価格での買い上げだったため、闇市でヤミ米が横行、ヤミ米を食べることを拒否し法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官山口良忠が餓死するという事件も起こっている。 米ばかりでなく、全ての食料が不足していた時代であり、占領軍の主体となったアメリカ合衆国により、1946年(昭和21年)からララ物資の援助があり、1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)まではガリオア・エロア資金として総額約20億ドルの経済援助が行われ、その60%以上が食糧輸入に充てられたものの、食糧不足の解決は難しく配給の遅配が相次ぐ事態となっていた。 食料を生産していない都市部では、欠食児童も多く、学校給食には大量に輸入されたメリケン粉が充てられ、アメリカの占領政策の一環で、学校給食は米飯ではなく、メリケン粉を使ったパンと脱脂粉乳が主体であったため、日本人の食事の欧風化が進行した。 マッカーサーは「我が輩は米と魚と野菜の貧しい日本人の食卓を、パンと肉とミルクの豊かな食卓に変えるためにやってきた」と豪語し、GHQ公衆衛生福祉局長のサムス准将は、「太平洋戦争はパン食民族と米食民族との対決であったが、結論はパン食民族が優秀だということだった」と言い放っている。 1952年(昭和27年)には、栄養改善法が施行され、厚生省がはじめた栄養改善運動では米偏重の是正が叫ばれ、欧米風の食事を理想としたことも手伝って、主食とされてきた米は遠ざけられ、戦前まで1人1石(160キログラム)といわれていた米の年間消費量は、1962年(昭和37年)に戦後最高の118.3キログラムに達したのをピークに、以後年々減少に向かった。
※この「戦後~1964年(昭和39年)」の解説は、「減反政策」の解説の一部です。
「戦後~1964年(昭和39年)」を含む「減反政策」の記事については、「減反政策」の概要を参照ください。
- 戦後~1964年のページへのリンク