戦後:「常総古文化研究会」の結成と活動
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藤田は太平洋戦争終戦後公職追放となり農業を営んでいた。その藤田を筑波郡内中心に遺跡を調査していた筑波町(現つくば市)の中村盛吉(なかむら もりきち、1901年-1958年)が1948年(昭和23年)9月に訪れた。両名は直ぐに意気投合し、以後共に学究を行うようになった。当時、稲敷郡木原村(現美浦村)に居住していた清野謙次が主催する「霞ヶ浦文化同好会」に両名は加入しながら共に茨城県内の遺跡調査を行った。清野の茨城県外への転居により「霞ヶ浦化同好会」が解散になった後は他の有志と共に「常総古文化研究所」を結成し、ガリ版刷りの同人誌『古代常総文化』(後『常総古代文化』と改題)を1952年(昭和27年)2月に創刊し、両名はこの機関誌に論文を寄稿した。 また、高井が1956年(昭和31年)12月から1958年(昭和33年)4月にかけて行った西茨城郡岩瀬町(現桜川市)の堀ノ内古窯跡群の発掘調査において、藤田率いる常総古文化研究会は発掘作業の中核を担った。 1958年4月に中村盛吉が死去。盟友を失った藤田は常総古文化研究会を事実上解散し、以後は収集した資料を地域・時代で区分し、スケッチに書き取るなどの整理作業を行うようになった。 1965年(昭和40年)7月28日、72歳で死去。息子の藤田安通志は、「あとは頼む。」が、その2日前に父から託された言葉だったと述べている。
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