戦後から昭和30年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:54 UTC 版)
所有車両54台の中にはガソリン配給を得るためのダミー車両も相当数含まれており、従業員は14社からの寄せ集めであった。1945年(昭和20年)には従業員数88名に減少、翌1946年(昭和21年)には車両43台に減少した。物価高騰の影響もあり毎年のように運賃値上げと増資を繰り返していた。路線は着々と延伸を図り各地域に進出した。1948年(昭和23年)には奥尻島に進出したものの1952年(昭和27年)10月4日に廃止されている。1951年(昭和26年)7月3日に商号を函館バス株式会社に変更した。 1954年(昭和29年)8月31日に函館バス労働組合(現:私鉄総連函館バス支部)が発足したが、これに対する会社側の対応を不服とし即日ストライキ(スト)に突入。妥結まで9月21日までの21日間を要した。1955年(昭和30年)には賃金引き上げを要求し7月6日にスト突入した。この時は8月26日の妥結までの51日間全路線運行停止となり、頻繁・長期化するストに業を煮やした沿線住民は函館バスに対して非難の声を上げ、国鉄バスに対して函館市乗り入れを陳情。函館市交通局(現・函館市企業局交通部)が大野・上磯方面と下海岸線の一部に、ハイヤー会社であった相互自動車が下海岸線に参入し、沿線自治体では貸切バスで輸送を行うなどの事態となった。上向きであった経営状況もストによる収入低下などが影響し危機を迎えることになり、同年行われた運輸省の監査では「稀に見る悪い会社」との酷評を受け改善を命じられた。 1957年(昭和32年)10月23日より東京急行電鉄の傘下に入り東急グループの一員としてスタートした。函館市や市民はこれを快く迎えたが、給料未払いや税金滞納など課題山積みの中での再スタートであった。この状況を打破するため旧路線の改廃や新規路線の運行などを行い、税金等の支払いをきちんと行うなどしたところ業績・信頼とも上向きとなった。1959年(昭和34年)には長期スト中に下海岸線に参入した相互自動車のバス事業を買収するなど利用者へのサービス改善を図った結果、1960年(昭和35年)の運輸省監査では「優良会社に成長した」との評を受けるまでに回復した。1956年(昭和31年)には檜山海岸線に国鉄バスと江差町営バスが参入の意向を示し、公聴会が行われるなど調整が続けられていたが1961年(昭和36年)10月27日に却下されている。路線拡大に伴い、1963年(昭和38年)6月21日に森、9月7日に函館バスセンター、11月29日に八雲、1964年(昭和39年)1月23日に知内に営業拠点を新築落成している。
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