戦後から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:01 UTC 版)
「牛田 (広島市)」の記事における「戦後から現在まで」の解説
1947年(昭和22年)4月27日 - 空中写真撮影。戦時中のアカマツ伐採、松根油の採取、開墾などにより南西側斜面一帯の植生がほとんど失われており、特に後の牛田中学校付近は完全なはげ山と化していた。 1970年(昭和45年) - 町名変更により、上記の牛田町は大部分が牛田南・牛田東・牛田早稲田・牛田旭・牛田新町・牛田山・牛田中・牛田本町に分割された。 1974年(昭和49年) - 残りの町域が戸坂地区(戸坂くるめ木)に編入され、町名としての「牛田町」は消滅した。これらの各町は1980年に広島市が政令指定都市に移行した際東区に属した。 1978年(昭和53年) - 第1回「牛田親子マラソン大会」が太田川河畔で開催された。 1986年(昭和61年) - 同年5月10日より一部地区で公共下水道使用開始。 1994年(平成6年) - 牛田総合公園開園、第1回「牛田ほおずき祭り」開催。
※この「戦後から現在まで」の解説は、「牛田 (広島市)」の解説の一部です。
「戦後から現在まで」を含む「牛田 (広島市)」の記事については、「牛田 (広島市)」の概要を参照ください。
戦後から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/14 14:17 UTC 版)
「出汐 (広島市)」の記事における「戦後から現在まで」の解説
戦後、出汐町の大半を占めていた軍用地は開放され、被服支廠の跡地の大半は県立皆実高(1949年設立)・県立工高(1953年設立)が校地として使用し、残った建物は学生寮やアパート、民間企業の工場・倉庫に転用された。周囲の農地も宅地化が進行し、1966年に町内を南北に分断する新広島バイパス(現国道2号)が開通したことはこの流れに拍車をかけ、区画整理に伴って出汐町も比治山本町・皆実町に町域の一部を編入した。その一方で、戦後次第に利用者を減らしていた宇品線はバイパス開通により廃止が決定的となり、1972年の旅客営業全面停止にともない上大河駅も廃止された(路線自体はその後も1986年まで貨物線「宇品四者協定線」として存続した)。1990年代になって隣接する段原地区の再開発事業が完成に向かったことは、出汐地区(1970年に出汐1〜3丁目→1980年に同1〜4丁目に再編された)の再開発にも影響を与え、戦後久しく皆実高校正門付近以南の区間が未開通であった広島市道中広宇品線も開通した。また1986年の廃止後しばらく廃線跡が放置されていた旧宇品線も、線路などの施設が完全に撤去され、国道2号(出汐2丁目北東角交差点)から丹那付近(広島南警察署前交差点)を結ぶ車道として生まれ変わっている。
※この「戦後から現在まで」の解説は、「出汐 (広島市)」の解説の一部です。
「戦後から現在まで」を含む「出汐 (広島市)」の記事については、「出汐 (広島市)」の概要を参照ください。
戦後から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 10:11 UTC 版)
「広島陸軍被服支廠」の記事における「戦後から現在まで」の解説
敗戦により廃止された被服支厰の旧施設・敷地は、1947年(昭和22年)10月以降、広島大学・広島高等師範学校校舎、大蔵省中国財務局庁舎、公務員宿舎用地、個人住宅用地、県立学校(皆実高校・県立広島工業高校)用地、国道2号線用地、その他事業用地(テレビ新広島本社社屋など)などに転用され、その過程で建物は現在残されている4棟を残して解体された。なお被服支廠本館は戦後1964年まで県立皆実高の本館として使用され、その後も美術・書道教室として長く使われたが現存しない。 その後、残る4棟のうち1棟のみが広島大学の学生寮「薫風寮」として使用され、のこり3棟は日本通運に所有が移り倉庫として使用された。1995年日通も使用しなくなり、施設は県へ譲渡され、1997年以降は4棟とも完全に未使用状態になった。また、「旧日本通運出汐倉庫1-4号棟」として市によって被爆建物台帳に登録されている。 かつては出汐町の大半部分を占める敷地を有していた被服支廠の遺構は、その数が残り少なくなった現在においても近隣地区におけるランドマーク的存在となっており、近くの旭商店街の愛称「アイビータウン」は、旧倉庫の壁面に絡まるツタに由来している。
※この「戦後から現在まで」の解説は、「広島陸軍被服支廠」の解説の一部です。
「戦後から現在まで」を含む「広島陸軍被服支廠」の記事については、「広島陸軍被服支廠」の概要を参照ください。
戦後から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 01:14 UTC 版)
「皆実町 (広島市)」の記事における「戦後から現在まで」の解説
戦後、皆実町では北部の軍用地が開放されて市営の「平和住宅」が建設される一方、現在の進徳女子高等学校も跡地に移転してきた。また、戦時中に建設された電車通りに沿った西半部から宅地化が進行し、蓮田やネギ畑などの農地はしだいに姿を消していった。御幸橋東詰と旧広島陸軍被服支廠(現在の県立皆実高・県立工高校地)を結ぶ街路として戦前から発達していた皆実町中通り商店街(みなみ中通り商店街)は、比較的原爆の被害が小さく、戦後は近隣の広島大学および附属中学・高校などの学生街として繁栄した。1966年、町域の北に新広島バイパス(現:国道2号)が開通したことに伴い、町域の一部を北側の比治山本町、東側の出汐町と交換した。1990年代以降、国道2号の北に位置する段原・出汐地区での再開発の進行にやや遅れて、この地区でも再開発が進行、広島市道中広宇品線・霞庚午線の2つの幹線道路が開通して4丁目・5丁目地区を中心に街並も大きく変化しつつある。戦前以来、ガス工場と並んでこの町を代表する施設だったJT広島工場は2004年に閉鎖され、跡地には大規模商業施設「ゆめタウン広島」が2008年に立地している。
※この「戦後から現在まで」の解説は、「皆実町 (広島市)」の解説の一部です。
「戦後から現在まで」を含む「皆実町 (広島市)」の記事については、「皆実町 (広島市)」の概要を参照ください。
戦後から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:25 UTC 版)
※日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。終戦後、1945年(昭和20年)9月にはアメリカ陸軍第8軍の部隊が甲府へ進駐。年末には戦闘部隊は引き上げ、少数の山梨県軍政部が県庁周辺の洋風建築を接収して県内の監視を行う。県内人口は復員兵や疎開者の帰還で増加し、戦時期の山林荒廃から災害被害もあり食糧事情は悪化。当局により、新潟県からの移入米の配給や米軍の食糧放出など対策を講じるが食糧難はしばらく続き、ヤミ米が流通した。 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革を受け、県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年(昭和21年)には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年(昭和22年)の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保が当選し、初代公選知事となる。吉江は1948年(昭和23年)2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げたものの、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。 1951年(昭和26年)の知事選では民主党代議士天野久が擁立され、吉江知事を破り当選。天野「富める山梨」を掲げ、利水に乏しい甲府盆地西部の御勅使川扇状地を開発する野呂川総合開発に着手し、計画は国の援助を受け上水道や県営発電所の建設が行われた。また、新笹子トンネル建設による幹線道路の整備は高度経済成長期とも重なり、果樹農業や観光の振興にも繋がった。一方で、天野県政期には開発による災害があり、北富士演習場問題が発生する。1959年と1966年に山梨県は台風により大規模な被害を受けるが、戦時中の治山治水事業の停滞と戦後の乱開発が被害拡大を招いたとされる。 1967年(昭和42年)に天野知事を破り3代知事となった田辺国男は「健康山梨」を掲げ、一村一工場誘致を方針に工業団地造成や幹線道路整備を行う一方で、開発により環境破壊が顕著となっていたため環境保護にも配慮したグリーン・プランを提唱する。一方で連峰スカイライン構想を具体化させると批判が相次ぎ、北富士演習場問題の膠着やオイルショックの影響による不況も重なって巨大開発構想は断念された。文化事業では、1978年(昭和53年)にはフランスの画家ミレーの『種をまく人』を2億円で落札・購入した山梨県立美術館を創設。 田辺県政は日本経済の好景気化も受け4期目を目指したが、中央政界で前天野知事を支持した自民党政治家金丸信が影響力を強めると県議会においても金丸派が最大派閥となり、これに社会党県連が4選阻止のため提携し、副知事の望月幸明を擁立。1979年(昭和54年)の県知事選では田辺知事を破り、望月が当選した。望月県政は金丸信の後見を受けて県議会でのオール与党体制を確立し、北富士演習場問題の小康やバブル景気の後押しを受け、1986年(昭和61年)のかいじ国体の開催や県有林の高度活用、リゾート施設の造成、リニア実験線の誘致などを勧めた。 1965年(昭和40年)までに県内の中央本線が複線・電化され、1982年(昭和57年)には中央自動車道が全線開通。また石和温泉や富士五湖、清里などの観光地が整備され、首都圏から日帰り短期旅行できる観光地としても発展した。 バブル景気が崩壊すると県内の景気も一気に低下。甲府中心地の地価が15年連続下落し、また清里などのリゾート地も衰退する。一方で郊外のベッドタウンではイトーヨーカドーやアピタといったショッピングセンターが次々と開業し、甲府西武やダイエー湯村SCが撤退して停滞する甲府中心街に対して発展を遂げている。 望月知事が4選を断念し、1992年(平成4年)に望月県政を批判して金丸派候補を破り当選した天野建知事(父は上記の天野久)は財政難の中公共工事の見直しを行いつつ環境行政を重視する「幸住県やまなし」事業を実施。山梨県立博物館の建設推進や排水路整備の推進をおこない、1996年(平成8年)には長年県民を苦しめてきた日本住血吸虫(地方病)の終息宣言を行う。 天野知事の後、2003年(平成15年)からは前甲府市長山本栄彦が知事に就任。バブル崩壊後手付かずだった甲府駅北口の整備や中部横断自動車道の増穂IC以南の着工を推進。しかし県政の混乱が発生し、2007年(平成19年)の選挙で横内正明に敗れ、山本県政は1期で終焉した。横内県政では、甲府市中心部の再開発や「トップセールス」として山梨県の特産物の海外展開を行なう。この間、世界金融危機や東日本大震災が発生し、特に山梨の景況感は冷え込み全国最下位が続いていた。2期続いた横内から2015年(平成27年)に県政を引き継いだ後藤斎は人口減対策などの政策を打ち出したが、政策の修正や見直しを迫られるなどし、2019年(平成31年)の選挙で長崎幸太郎に敗れている。 2003年(平成15年)より平成の大合併が行われ、64あった市町村が27(2010年(平成22年)3月時点)まで集約された。 平成末期の2018年(平成30年)基準での都道府県別ランキングでは健康寿命が全国1位(男性1位、女性3位)であるほか、『東洋経済』による幸福度ランキングでも上位につけている。しかしNPO法人「ふるさと回帰支援センター」による移住希望地ランキングでは総合4位で60代以上が全国2位、30代から50代は全国3位と高い評価の一方で20代は10位外となっており、ダイヤモンド社による「地元愛が強い都道府県ランキング」では最下位となるなど、高齢者の評価が高いのに対し若者や県外へ転出した者の評価が低い傾向にある。
※この「戦後から現在まで」の解説は、「山梨県」の解説の一部です。
「戦後から現在まで」を含む「山梨県」の記事については、「山梨県」の概要を参照ください。
戦後から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 01:37 UTC 版)
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 戦前の絵手紙 左記絵手紙と同方向から(2008年) 戦後、補修しながらも長く供用されていた。1947年(昭和22年)原爆十景に、翌1948年(昭和23年)原爆記念保存物に指定され、観光利用されることになった。1977年(昭和52年)から国の太田川高潮対策事業に伴い護岸整備が始まった。 その後高潮対策事業に伴う護岸整備および橋の老朽化に伴い架け替えが決まり、被爆した親柱4基・中柱4基を利用し、大正時代竣工当時を再現したデザインとすることが決定した。鋳物の電灯が用いられまた橋脚を1基減らし1つとなり橋長は長くなり幅員も拡幅された。1989年(平成元年)から着工、1992年(平成4年)再開通した。総事業費10億2千万円。
※この「戦後から現在まで」の解説は、「元安橋」の解説の一部です。
「戦後から現在まで」を含む「元安橋」の記事については、「元安橋」の概要を参照ください。
戦後から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 05:16 UTC 版)
蔬菜・麦・レンコンなどが栽培される近郊農業地域であった町は戦後、次第に宅地化が進行し、一時は下大河駅が近隣の学校に通学する学生の乗降でにぎわっていた。1970年には宇品線以東の地区を旭1〜3丁目に再編し、1980年には残りの地区を西旭町に改称、町名としての旭町は消滅した。また1960年代に入って利用者を減らしていた宇品線は、1966年平面交差する新広島バイパス(現・国道2号)の開通により致命的な影響を受け、同年末、一般旅客営業停止にともない下大河駅も廃止された(路線自体はその後も貨物線として1986年まで存続した)。また、現在の旭3丁目地区の南半部(広島南警察署前交差点から大河保育園の南側まで)は、戦後に至るまで広島湾への入江が深く切り込み、付近の児童の水遊びの場などとして利用されていたが、1964年に南側の宇品東に工場用地が埋め立てられたのち、1967年にはこの入江も埋め立てられて細い水路となり、その後1980年に下水道整備事業により水路も暗渠化された。1986年の廃止後しばらく廃線跡が放置されていた旧宇品線は、1990年代後半には線路などの施設が完全に撤去され、国道2号(出汐2丁目北東角交差点)と黄金山通り(広島南警察署前交差点)を結ぶ車道として生まれ変わっている。その一方、旧宇品線の沿線に発達した旭町商店街など、古くからの下町の雰囲気を残す街並みも健在である。
※この「戦後から現在まで」の解説は、「旭 (広島市)」の解説の一部です。
「戦後から現在まで」を含む「旭 (広島市)」の記事については、「旭 (広島市)」の概要を参照ください。
戦後から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 07:24 UTC 版)
1946年(昭和21年)4月 - 千葉県血清製造所が設置(後に市川市国府台に移転) 6月 戦災地方巡幸のため、昭和天皇が戦災地・陸軍習志野錬兵場を含む旧軍施設を視察しに行幸。 9月、11月 - 東邦女子医学薬学専門学校・東邦女子理学専門学校(現東邦大学理学・薬学部)が大田区大森西より三山に移転。 11月4日 - 市立図書館(現・船橋市立西図書館)が開館。 1947年(昭和22年)12月27日 - 新京成電鉄 新津田沼 - 薬園台間が開通。 1948年(昭和23年)3月7日 - 船橋市警察署(自治体警察)が発足。 1949年(昭和24年)4月1日 - 船橋市消防本部(現・船橋市消防局)が設置される。 1950年(昭和25年)8月21日 - 船橋競馬場開場。 10月29日 船橋オートレース場開場。 1951年(昭和26年)6月 - 旧騎兵学校跡地に警察予備隊(現・習志野駐屯地)が入営。 1952年(昭和27年)7月28日 - 天然ガスの試掘に成功する。 12月10日 - 千葉県が船橋港の港湾管理者となる。 1953年(昭和28年)3月25日 - 船橋港が港湾法に基づく地方港湾に指定される。 8月1日 - 二宮町を編入。人口が10万を突破。 1954年(昭和29年)4月1日 - 豊富村を編入。 7月1日 - 船橋市警察署を千葉県船橋警察署(現・千葉県警察船橋警察署)と改組。 1955年(昭和30年)9月30日 - 習志野台の一部区域を習志野市に編入。 1956年(昭和31年) - 東京湾域の大規模な埋立てが始まる(完成後、日の出・栄町・西浦となる)。 1958年(昭和33年)9月26日 - 狩野川台風の来襲で、海老川沿いの宮本・本町・飯山満・前原などで床上下浸水の被害。 11月10日 - 国鉄西船橋駅開業。 1960年(昭和35年)4月29日 - 京葉道路海神 - 一之江間供用開始。 10月1日 - 前原団地入居開始。 1961年(昭和36年)8月25日 - 高根台団地入居開始。 10月1日 - 船橋港が港湾運送事業法に基づく二種港に指定される。 1967年(昭和42年)2月1日 - 習志野台団地入居開始。 1968年(昭和43年)1月8日 - 船橋オートレース場が移転。 2月20日 - 夏見台団地入居開始。 6月1日 - 船橋港が港湾法に基づく千葉港の港域に編入。特定重要港湾に指定される。 1969年(昭和44年)3月29日 - 帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)東西線、西船橋 - 中野間全線開通。船橋中央卸市場開業。 6月30日 - 若松団地入居開始。 7月15日 - 人口が30万人を突破。 1971年(昭和46年)5月19日 - 旧海軍無線電信所船橋送信所解体作業開始。 8月28日 - 金杉台団地入居開始。 9月29日 - 地下水の過剰汲み上げによる地盤沈下が深刻化。市が地盤沈下非常事態宣言を発令。 1972年(昭和47年)1月1日 - 天然ガスの汲み上げを全面禁止とする。 8月1日 - 船橋港が植物防疫法に基づく輸入指定港となる。 1973年(昭和48年)10月14日 - 第28回国民体育大会秋季大会(若潮国体)。体操・馬術・ウエイトリフティング会場となる。 1974年(昭和49年) - 市役所で四週間に一度の週休二日制が始まる。 1975年(昭和50年)2月7日 - 新京成電鉄、新津田沼 - 松戸間全線複線化。 7月10日 - 船橋港が港則法に基づき千葉港に編入。特定港となる。 1976年(昭和51年)3月31日 - 行田団地入居開始。 1977年(昭和52年)4月1日 - 芝山団地入居開始。 1978年(昭和53年)1月20日 - 東京湾岸道路、千葉 - 東京間暫定供用開始。 10月2日 - 国鉄武蔵野線が西船橋まで延長。 1979年(昭和54年)3月9日 - 北総開発鉄道が小室・北初富間に開通。 1981年(昭和56年)10月1日 - 国鉄東船橋駅開業。 12月3日 - 防災行政無線が開局する。 1982年(昭和57年)2月1日 - 船橋東警察署開署。船橋警察署を船橋西警察署に改称(1991年に旧称に変更)。 9月22日 - 人口が50万人を突破。 10月10日 - スポーツ健康都市宣言。 12月19日 - 平和都市宣言。 1986年(昭和61年)3月3日 - 国鉄京葉線、西船橋駅 - 千葉みなと駅間が開通。南船橋駅開設。 11月7日 - ヘイワード市(アメリカ合衆国カリフォルニア州)と姉妹都市提携を締結。 1987年(昭和62年)11月15日 - 「ワンパク王国」が開園。 12月17日 - 千葉県東方沖地震発生。市内各所にて被害が発生する。 1988年(昭和63年)12月1日 - JR京葉線第2期工事完成 (新木場駅 - 南船橋駅間、市川塩浜駅 - 西船橋駅間)、二俣新町駅開業 1989年(平成元年)4月6日 - オーデンセ市(デンマーク王国フューン県)と姉妹都市提携を締結。 1992年(平成4年)9月14日 - 福祉と緑の都市宣言。 1994年(平成6年)11月2日 - 西安市(中華人民共和国陝西省)と姉妹都市提携を締結。 1996年(平成8年)4月27日 - 東葉高速鉄道、西船橋 - 東葉勝田台間が開通。 2003年(平成15年)4月1日 - 中核市に移行。 2009年(平成21年)9月 - 人口が60万人を突破。 2011年(平成23年)7月7日 - 小中学生用の学習バス「キッズ船橋号」を東日本大震災の被災地福島県相馬市と岩手県大船渡市へ寄贈。名称・塗装ともにそのままで使用されている(市内の学習バスは貸切バスを借り、「キッズ船橋」と掲出する形に変更)。 2016年(平成28年)3月21日 - 船橋オートレース場最終レースを終了、同月30日で場外発売も終了、閉鎖。
※この「戦後から現在まで」の解説は、「船橋市」の解説の一部です。
「戦後から現在まで」を含む「船橋市」の記事については、「船橋市」の概要を参照ください。
- 戦後から現在までのページへのリンク