田辺県政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:00 UTC 版)
高度経済成長期にあたる天野県政は「富める山梨」をスローガンに、経済第一主義で道路整備や工業団地造成など産業基盤整備に着手していたが、県内の工業生産は未だ発展途上にあり、一方では地場産業への打撃や開発に伴う環境問題や公害の発生も顕在化していた。 田辺県政においては自然環境の保全と両立した経済発展が望まれ、田辺県政は「健康山梨」をスローガンに環境保全に配慮した「グリーンプラン」を提唱し、後援会も「緑友会」とした。公害防止条例や一村一工場誘致、一兆円生産や100万人人口などを目標に掲げる。こうした田辺県政の方針により県有林の伐採が抑制されたため恩賜県有財産特別会計は赤字となり、林業に打撃を与えたため山間地域での過疎化が進行し、県有林の活用策が県政の争点となる。1971年(昭和46年)の知事選では刷新連の結束力が弱体化していたものの二期目の当選を果たし、山間部の観光開発を主眼とした「連峰スカイライン」構想を提唱するが、これには環境保護を巡って議論が起こった。 全面返還を公約とした北富士演習場問題は北富士演習場対策協議会(演対協)が政府や防衛省との折衝にあたっていたが交渉は膠着しており、1969年(昭和44年)には県と政府の使用協定更新が迫っていた。占有期限の失効が迫ると同年7月には田辺と首相の田中角栄と会談し、国有地の払い下げや民政安定事業の積極措置を条件に既定方針を転換して使用協定を更新する。この協定により演習場問題は一段落するが、社会党勢力との連携が崩れることになった。 1974年(昭和49年)の知事選では、前年のオイルショックの影響を受け産業基盤整備が遅延し、離反した社会党勢力による候補者擁立など不安要素はあったものの三選を果たした。不況が持続していた三期目では山梨県立美術館の建設や山梨県立県民文化ホールの着工(完成は望月県政期)などとソフト面を強調した県政を推進し、「文化不毛の地」と評されていた山梨県における文化事業の推進を行う。 県政末期には日本経済も安定成長期に入ったため県財政も好転し四期目を志向するが、この頃には金丸信は国政においても影響力を強めており、県政でも天野前知事の政治勢力を継承し県議会でも最大勢力となっていた。金丸派は四選阻止のため、社会党勢力と結束し副知事の望月幸明を対抗候補に擁立し、1979年(昭和54年)の知事選では1万2000票差で敗北した。
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