廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 04:21 UTC 版)
使用停止・撤去後の廃線跡はまもなく住宅地に転用され、一部の住宅がかつての連絡線上に連なって建てられているが、それ以外の痕跡はほぼ見られなくなっている。 小田急小田原線世田谷代田駅の上りホーム裏に一部廃線跡が残っていたが、同線の地下化・複々線化工事により現在は消滅している。 なお、京王井の頭線代田二丁目駅(→新代田駅)の構内渋谷寄りには廃止後かなりの間渡り線(分岐器)が放置されていた。おそらくこれも代田連絡線と同じく被災車両の搬出・新車搬入に使われたものと思われる。しかし後に渡り線は撤去されロングレールとなり、現在連絡線跡を偲ばせる遺構は存在しない。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 19:06 UTC 版)
旧三潴町内の早津崎駅跡付近にある早津崎交差点から旧城島町中心部の城島新町駅跡付近までの間の区間は遊歩道として整備されており、敷石が線路のような模様に敷かれている。その先はほとんど道路の一部となっているが、福岡県道47号久留米城島大川線の新橋水門(大川市向島)付近に当時の橋脚が4本残っている。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 05:07 UTC 版)
廃線となった区間の鉄道用地や駅などの建造物、またトンネルや橋梁などが道路ほかに転用されたり、もしくは転用されないまま山野の中に土木構造物の遺構として放置されている状態を廃線跡という。 鉄道路線は細長く、他に転用することが難しいため、廃線後何十年も当時のまま放置されている廃線跡も多い。また、道路に転用されていても、鉄道路線独特の、直線や緩やかなカーブを主体とした線形を保っている場合が多い(バス専用道路、サイクリングロード、遊歩道、緑道となる場合もある)。跨線橋・橋台など鉄道施設の撤去はそれまで鉄道事業を行っていた者が行うことが基本であるが、乗客減による資金難で廃線になった路線などでは撤去資金が捻出できずに放置されてしまうこともある。 廃線跡が鉄道施設ごと沿線自治体に無償譲渡されることもあり、その場合は用地の測量、鉄道施設の調査、設備撤去に要する費用の確定を行い、鉄道事業者が国土交通省に対して、鉄道施設に係る財産譲渡について許可を得る必要がある。無償譲渡後に沿線自治体が鉄道施設を撤去する場合、撤去相当額を鉄道事業者が負担することもある。施設が行政に譲渡された場合などには、駅跡などにはそれを示すモニュメントなどが造られていることもある。廃線区間内でも市街地に位置する駅の跡地についてはバスターミナルや交通広場として再整備された例も多い。 趣味的な観点ではなく、地元になじみのあった鉄道路線が後年まで住民に認識されている例も見られる。一例として、山梨県甲府市徳行地区には「廃軌道」と呼ばれる通りがあり、バス路線の名称にもなっている。店舗などの案内地図や山梨交通が配布するバス路線図にも記載されているが、これは山梨交通電車線の廃線跡のことである。かつて鉄道路線があったことをうかがわせるものは(名前以外に)特に現存しないが「廃軌道」の通称は地元で認知されている存在である。 他方、山間部などでは廃線後に線路が撤去され、その後長い年月を経て完全に元の自然の姿に還り、トンネルも崩落するなど現在では近づくことも安全とは言い難い廃線跡というのも少なくない。また、都市部の場合には都市開発や宅地化の進展、農村部でも圃場整備に伴う区画整理などによって、廃線跡の痕跡が完全に消滅している場所も珍しくない。その他、特に線路敷として道路脇や河川敷・堤防上を利用していた場合には、道路の拡幅や河川改修などによって廃線跡が全く痕跡を留めない例も多い。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 18:51 UTC 版)
廃止から50年近くが経過した1984年時点でも、千曲川の橋脚などが残存していたほか、線路敷が県道や町道、農道として利用されていた。 2021年の時点でも、上記の橋脚の他、唯一のスイッチバック駅であった押出駅の遺構も残存しており、「新町区・歴史的遺産を守る会」の説明板が建てられている。 旧・押出駅の遺構 諏訪側で建設途中のまま放棄された佐久諏訪電気鉄道は、各地に遺構が後年まで残された。茅野市内には橋脚や築堤が数カ所現存するほか、茅野市豊平南大塩区内の電鉄用地は1991年供用の国道299号南大塩バイパス道路(現・国道152号重複区間)に転用されている。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 03:42 UTC 版)
幌似駅と国富駅のホームが現存している。国富 - 岩内間のほとんどの区間が道路に転用された。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:48 UTC 版)
「京福電気鉄道永平寺線」の記事における「廃線跡」の解説
前述のとおり、永平寺線の廃線後、永平寺町は廃線となった跡地を遊歩道として整備。愛称として「永平寺参ろーど」と命名した。 2017年(平成29年)10月から2019年(平成31年)3月まで、自動運転車の実証実験をパナソニック・産業技術総合研究所と共同で実施。実証実験を踏まえて、2020年(令和2年)12月22日に「永平寺参ろーど」で日本では初めてとなる自動運転レベル3での運行を開始、降雪を考慮し翌年(2021年)3月25日に本格運用を開始した。なお、自動運転の対象区間は全区間のうち、志比 - 荒谷間の約2kmとなっている。運行についての詳細は、ZENコネクト公式サイトを参照。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:09 UTC 版)
廃線跡はかなりの部分で確認できるが、上田交通管理・経営の月極駐車場のほか、道路・農道や宅地等に転用されている場所も多い。公園前駅は旧ホームなどの遺構が保存されているほか、付近の線路敷の跡は遊歩道となっている。樋之沢駅の旧ホームは放置されており残存している。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 18:06 UTC 版)
鶴岡 - 上之郷間には円山川があり、鶴岡橋から水が少ないときは旧鶴岡橋梁の土台が見える。円山川 - 上之郷間では国道482号出石方面への進行方向東側に分かれ上郷区にはいっていく。上郷区にあった旧上ノ郷駅の西側は2車線の道路であるが東側は畑になっている。上之郷から中筋方面へは途中上郷川に小さな橋げたがある。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 05:33 UTC 版)
立川-拝島間は戦中に線路が撤去されているが古くから廃線跡のレポートが発表されている。1963年のレポートによれば各駅のプラットホームや建物の基礎部分、八高線交差部前後の切り通しなどが残っていたが、やがて都市化の波が押し寄せ廃線敷は拡幅され道路となり周辺は宅地へとかわっていった。五日市鉄道と交差していた八高線の鉄橋は2001-2002年まで残っていたが取り外され地下道が作られた。2004年昭島市では市制50周年を記念して廃線跡の道路を五鉄通りと命名し大神駅跡にはホーム、レール、台車などのモニュメントがつくられた。なお実際の大神駅は切り通しで地表より2-3m下にあり当時の姿とは違うが桜の木は戦前からあるものだという 武蔵田中駅跡付近のモニュメント 大神駅跡モニュメント 五鉄通り 八高線交差部
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 18:18 UTC 版)
詳細は「三木鉄道三木線#廃線跡の整備」を参照 三木鉄道跡には4.8kmの遊歩道「別所ゆめ街道」が整備されている。うち別所ふるさと交流館(三木市別所町下石野1)-県道三木宍粟線高木末広バイパス(三木市別所町高木)間の4kmはサイクリングロードとして整備されている。サイクリングロードは「はりまの里スーパーロングライドコース」の一部である。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:33 UTC 版)
跡地はほとんど遊歩道になり、所々に名残が残る。 三鷹市内では廃線跡が「堀合(ほりあわい)遊歩道」に変わり、国鉄保有地との境界だったことを示す「工」マークの境界杭がたくさん残る。当時の橋台を再利用した「ぎんなん橋」で玉川上水を越えると武蔵野市に入り、「グリーンパーク遊歩道」に名を変える。整備が進み境界杭がないまま、井の頭通りを越え、しばらく進むと関前高射砲跡、関前公園が途中にあり、周辺は当時の鉄道柵や境界杭が残る「グリーンパーク遊歩道」が終わると武蔵野中央公園脇の小道に入り、さらに進むと都営アパートの敷地になり、武蔵野ガリレアとの境界のところに赤いペンキが塗られた境界杭が2つ残る。終点の駅舎跡は分譲マンションの武蔵野ガリレアに変わった。 境浄水場への引き込み線の跡が、対称的に武蔵境駅側から伸びている。 武蔵野グリーンパーク野球場跡地は、日本住宅公団が土地を買い、現在は武蔵野緑町パークタウンというマンションになっている。線路跡は、緩やかな坂が残るのみである。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 09:10 UTC 版)
笠岡から北川にかけては断片的に残っているが、岡山県道48号笠岡美星線の拡幅などでかなりの旧道床が姿を消した。また矢掛線と井原以西の旧道床も、大半が井原鉄道井原線の道床に転用され、遺構はわずかに残るのみである。 旧新山駅は駅舎が現存しており、井笠鉄道記念館として車輌や資料を保存している。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 00:02 UTC 版)
(旧)高畠駅の駅舎はそのまま保存されており、鉄道廃止後も代替する山交バス高畠待合所として利用されていた。代替バスは町営になった後、廃止された。電車1両(モハ1)、電気機関車1両(ED1)、貨車1両も保存されている。路線跡はサイクリングロードまほろば緑道となり、置賜自転車道(米沢駅 - 赤湯駅)の一区間となった。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 04:39 UTC 版)
「小田急向ヶ丘遊園モノレール線」の記事における「廃線跡」の解説
廃止後、モノレールの駅や支柱などはそのまま放置されていたが、2002年(平成14年)から2004年(平成16年)にかけて段階的に撤去された。 廃線跡のうち二ヶ領用水に沿う区間は「五ヶ村堀緑地」や「ばら苑アクセスロード」などの遊歩道として整備され、設置されている案内板には当路線に関する記述も掲載されている。また、橋脚が設置されていた地点には小田急による金属製プレートが地表に設置されている。モノレールが府中街道を跨いでいた本村橋交差点付近には、当時の橋脚を模した小型のモニュメントが設けられている。 向ヶ丘遊園駅跡地は自転車駐輪場に転用され、向ヶ丘遊園正門駅跡地は整地された後、2011年(平成23年)に藤子・F・不二雄ミュージアムが付近に開館した。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 05:44 UTC 版)
戦前、海田市駅から陸軍被服支廠海田市倉庫(現在の自衛隊)へ延びる引き込み線があった。海田市駅南口から分岐し、鉄橋(現在はひまわり大橋に架け替え)で瀬野川を渡り、南大正町交差点で国道2号と交差し、海田西小学校を通り、自衛隊へと続いていた。海田市駅南口が出来る前は、瀬野川手前まで軌道が残っていたが、今は道路となっている。尾崎川に斜めに架かる小さな橋が唯一の遺構である。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 14:14 UTC 版)
専用線の跡は残っておらず、終点にあった工場跡はアスパラガスの運送会社が利用している。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 17:35 UTC 版)
廃線跡は比較的多く残り、国道や県道、通学路等地元住民の生活路となっている。 本長篠駅付近から内金トンネルまでは、河津桜が多数植えられ、開花時期にはインスタ映えスポットとして有名になっている。 長篠付近の愛知県道32号長篠東栄線すぐ脇には、大井川橋梁跡の橋脚があり、ひときわ目を引く。 旧三河大草駅跡は、永らく荒れ放題となっていたが、近年草刈り等の整備が定期的に行われ、こちらも隠れた名所となった。 旧鳳来寺駅舎は、「豊鉄ほうらいじ食堂」として廃止後も使用されたが、その後改築された。現在は取り壊され、駐車場になっている。 旧三河海老駅跡は、しばらく豊鉄バス海老管理所として使用された。平成初期に駅舎が取り壊された後も、バス旋回場として一日数回使用されていた。県道バイパス工事により路盤が削られ、かつて通行出来た海老 - 滝上間の一部は、通行出来なくなった。 県内最長の鉄道用トンネルであった稲目トンネルは、廃止後しばらくは代行バス専用トンネルとして使用された。その後1979年に拡張工事を受けて2車線片側歩道付となり、愛知県道389号富栄設楽線(開通当初は「鳳来設楽線」)の一部として一般交通にも開放された。現在も豊鉄バス田口新城線が通行している。 「第二寒狭川橋梁」の清崎寄りにあった田峰駅の場内信号機は、廃線後から1996年(平成8年)頃まで、清崎駅跡に、同駅の駅名標と共に保存されていた。その後撤去され、地元の建設会社倉庫脇に雨ざらしで放置されていた。現在は塗装し直されて保管されている模様である。 設楽町内の寒狭川に架けられていた「第三寒狭川橋梁」は箱上橋(通称:辨天橋)、「第四寒狭川橋梁」は平野橋(通称:高鉄橋)として、一般町道に転用されている。 旧三河田口駅舎(設楽町営バス宇連長江線田尻バス停下車)は長く残存したが、何の保全もなされず廃屋状態で次第に朽ち果て、鮎渕(臨)停車場近傍の設楽ダム計画も合わせていつまで残存するか予断を許さない状況が続いていた。2005年に支えの少ない北側待合室部分から半壊した。廃線から43年の2011年8月21日の深夜に全壊した。この北の田口森林軌道跡もダム水没予定地である。 設楽町田口にある資料館「奥三河郷土館」敷地内に、田口線で使用されていた電車(モハ14)が静態保存されていた。同車両は廃線後9年間、田峰駅構内に放置されていたが、奥三河郷土館に移送設置し、半分のロングシートを撤去しガラスケースを入れて「田口線資料展示室」として利用されていた。また、奥三河郷土館の館内では、元職員の手による当時の様子を撮影したアマチュア8ミリフィルムをVHSビデオに再生した映像を閲覧することができた(画質は良好ではない)。設楽町清崎に建設された、道の駅したら施設内に奥三河郷土館が移転した事に伴い、前記の保存車両モハ14も清崎に移転した。 その他の保存物としては、長篠の医王寺に三河大草駅の駅名標、勾配標や曲線標などが保存展示されている他、「学童農園山びこの丘」施設内、伝承館の一角に、鳳来寺駅の駅名標他、田口線で使用されていた道具などが展示されている。沿線の鳳来寺小学校には、廃線後10年間、玖老勢駅と鳳来寺駅の駅名標が保存されていたが、校舎改築に際し、撤去された模様である。
※この「廃線跡」の解説は、「豊橋鉄道田口線」の解説の一部です。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 18:49 UTC 版)
部分廃止区間については、高松 - 村松間の廃線跡が農地改良によって失われた他は、おおむね農道に転用もしくは軌条・架線・架線柱を撤去した状態でそのまま存置されている。加茂 - 東加茂間の加茂川橋梁はJR信越本線と共有されていたため、複線の信越本線と併せて三線分の幅員があり、廃止後も蒲原鉄道の架線・レールが撤去された他は枕木などもそのまま残っている。また、JR信越本線加茂 - 羽生田間には蒲原鉄道線が信越本線を乗り越していた線路橋の橋桁と築堤が残されており、新潟方面に向かって右手の築堤上には陣ヶ峰駅のホーム・階段が残存する。その他、七谷駅は駅舎・ホームとも残存し、土倉・高松両駅はホーム跡が残るほか、冬鳥越 - 土倉間に存在した土倉隧道が廃線当時そのままの状態で放置されている。新潟県立加茂農林高等学校裏手にも隧道の遺構が残存する。 残存区間の廃止後については、村松・今泉・五泉の各駅ともホームなどの撤去が廃止後間もなく実施され、一部区間に路盤跡が残るのみである。 旧村松駅駅舎。廃線後はバスターミナルとして使用。(2007年10月) 2007年5月当時、五泉市内にて静態保存されていたモハ71・クハ10。木造の雨除けは村松駅のホーム上屋を移築したもの。2013年解体。 冬鳥越スキーガーデンに保存されているモハ61・モハ1(2021年9月) 廃線跡を利用して整備された一般農道新田線(2021年9月)
※この「廃線跡」の解説は、「蒲原鉄道線」の解説の一部です。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 10:08 UTC 版)
都電は道路を運行していたため、廃線跡はほとんどの場合道路に埋もれてしまい、現存していない。しかし、一部の専用軌道など、廃線跡として残っているものもある。
※この「廃線跡」の解説は、「東京都電車」の解説の一部です。
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廃線跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 06:57 UTC 版)
木ノ本 - 新旧分岐点:本線上り線 余呉新旧分岐点 - 雁ヶ谷駅:築堤路盤を国道に流用 中ノ郷駅跡 - 一部ホーム跡あり。レプリカ駅名標は地名にちなみ駅名ではない中之郷になっている。 柳ヶ瀬トンネル両ポータル付近:ほぼそのまま 刀根駅付近:北陸自動車道刀根下りPA、刀根集落には駅名標が残され、レールなどの残骸がそこかしこに残存するといわれる。 小刀根トンネル付近:ほぼそのまま 刀根トンネル:拡幅し県道へ 刀根 - 麻生口:県道もしくは農道 麻生トンネル:切り通し化 麻生口 - 疋田信号交差点:農道もしくは自然に帰す。疋田鉄橋は消滅。 疋田駅付近:疋田駅の周囲は建物が取り囲み直通はできない。融雪溝は残存しているものの上り線及び引き込み線部分は敦賀 - 疋田間休止時に更地化されて連絡バス待機場所に転用された。現在は私有地。疋田駅下りホームは旧愛発児童館。旧駅舎は鮮魚店。 疋田新旧分岐点 - 鳩原信号場:ほぼそのまま
※この「廃線跡」の解説は、「柳ヶ瀬線」の解説の一部です。
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