廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 08:02 UTC 版)
日方駅および構内の車庫は更地となり、かつてをしのばせる物は何もなくなった。現在は野上電鉄とは関係なく残土などが放置されている。 JR海南駅裏手付近(連絡口駅近く)から沖野々駅付近までの廃線跡は、海南市によって遊歩道として整備されている。また、春日前、幡川、重根、紀伊阪井の各駅の跡は公園となっており、駅名標を模した看板が立てられている。ただし、その後、幡川〜重根間の一部は、住宅や田畑などに転用されたため、面影はなくなっている。 路盤の一部は並行する国道の拡幅に利用されている。沖野々駅付近から登山口駅付近までの廃線跡は完全に国道に取り込まれており、痕跡はない。また、野上中駅付近から登山口駅付近までの廃線跡は国道370号バイパスとなっている。 登山口駅跡は、代替バスである大十バスの車庫となっている。 鉄道と並行して野鉄バスが運行されていた。鉄道廃止後は、大十バスが運行している。 同じく沿線で、野鉄タクシー株式会社がタクシーを運行していた。1993年8月に大十に株式譲渡し、野上電鉄の廃線を待ってオレンジタクシー株式会社に社名を変更するが、2016年10月に野鉄観光に経営譲渡、合併して野鉄観光のタクシー事業部となり再び野鉄タクシーを名乗る。 モハ20形24号(アーモンドチョコ塗装車)と、モハ30形32号の2両は、その車体の譲受元である阪神電鉄に里帰りし、茶色の塗装に戻された上、尼崎センタープール前駅の高架下に、大切に保存されている。 下佐々駅跡付近に、モハ20形27号と、モハ30形31号が保存されている。モハ20形27号は個人医院の私有地に、モハ30形31号はくすのき公園内にそれぞれ保存されており、双方とも屋根付きである。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/27 17:49 UTC 版)
「黒須駅 (埼玉県古谷村)」の記事における「廃線後の状況」の解説
現在電停自体の跡地は残っていないが、電停の直前、小さな用水路をまたぐ部分に煉瓦造りの小さな橋台が一対残されている。 以前はほぼ完全な形であったものを、用水路の改修により下をコンクリートに固められてしまっているが、アンカーボルトを切断した跡が残るなど、廃止後70年近いことを考えると比較的保存状態は良好である。なお、当線の遺構が残されているのはここのみであり、その意味でも極めて貴重なものである。 この先廃線跡は細道となって残されているが、ダートとなった後に川へぶつかって唐突に行き止まりとなる。この先の川は、荒川の流路が改修で大きく変更された際、旧流路が切り離されて残されたもので、大きな堰が設置されるなど大改造を受けており、当線現役当時の痕跡は潰滅している。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/01/15 04:06 UTC 版)
併用軌道上の電停であったこともあり、集落の中心へ通じるごく普通の二車線道路と化して痕跡はない。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/01/15 04:03 UTC 版)
専用軌道部分の廃線跡はそのまま細道に転用され、電停の痕跡はない。ただし廃線に特徴的な細かいカーブがいくつも見られるほか、周りの家の敷地よりやや高めであるなど元軌道線であった頃の面影が見られる。 併用軌道部分はほとんど県道に併呑されてしまっているが、小仙波地区の東側から旧道が出現して新道と組んずほぐれつしながら進むようになり、そのまま新道の北へ突き抜けて二ノ関へと続いている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/04/17 11:14 UTC 版)
路面区間の電停ということもあり痕跡はない。それ以前に周囲の街路が平和通りとして大拡張されてしまっており、建物も改築されて電車が通っていたことすら想像するのが困難である。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/04/17 11:15 UTC 版)
「県庁前駅 (山梨県)」の記事における「廃線後の状況」の解説
路面区間の電停ということもあり痕跡はない。道路も拡張され、官庁街の建物も改築されたり配置が変わり、さらには旧甲府西武である「県民情報プラザ」が北側の道沿いに鎮座しており、当時とはかなり様相が異なっている。 また舞鶴通りがさらに延伸して鉄橋で中央本線を越えるようになったことで電停先の交差点の交通量が当時の比ではなくなり、さらに電車通り時代の面影をかき消している状態である。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/08 05:21 UTC 版)
専用軌道部は突入部から終点の甲斐青柳駅まで「廃軌道」と呼ばれる2車線の道路として使用され、各駅の跡もその上に存在する。 当駅は南西通りが分岐する東のガソリンスタンド横に道路のふくらみとして跡が残されており、比較的判別が容易である。ここから先、釜無川を越える手前の農林高校前駅まで同様の状態が続く。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/08 05:25 UTC 版)
泉町電停や第二高校前電停とほぼ同じで、近年行われた道路の大拡幅とそれに伴う立ち退き・建て替えによって跡形もなくなっており、「寿町」のバス停のみに名前を留める状態である。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/08 05:17 UTC 版)
専用軌道の跡地である道路「廃軌道」上に跡が存在する。現在駅の周辺には取り立てて目標物はないが、駅自体が道路端のくぼみというよりも1車線以上ある広い空き地として残されており、判別は容易である。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/08 05:27 UTC 版)
状況は泉町電停と同じで、近年まで道路だけは狭い状態であったが、大幅な拡幅工事により、道路も街並みも完全に過去のものとなっている。 なお電停名の元になった県立第二高校は1975年に荒川の対岸へ移転し、現在「県立甲府西高校」と校名を改称している。同校の跡地には現在山梨県立県民文化ホールが建てられている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/21 14:20 UTC 版)
道路そのものが旧国道16号で拡張を受けており、電停の痕跡は残されていない。また大宮種鶏場は戦後に「大宮種畜牧場」と改称の後、1965年(昭和40年)に福島県白河市に移転、その跡地は現在農業・食品産業技術総合研究機構生物系特定産業技術研究支援センター・農業技術革新工学研究センターとなっている。種鶏場の庁舎のみが記念館として残されており、電停名の元までなくなっている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 16:01 UTC 版)
日立電鉄線の廃線後、駅舎は営業所兼待合室として、「日立電鉄交通サービス太田旅行センター」が代替バス乗車券を販売していた。2007年(平成19年)6月頃にホームが解体された。さらに2010年(平成22年)2月から3月にかけて、常陸太田駅周辺整備事業に伴い駅舎も解体され、跡地はドラッグストアの店舗敷地になった他、一部が国道293号の道路用地に転用された。 水郡線常陸太田駅前から見た常北太田駅跡。手前の道路は国道349号線。(2009年1月26日撮影) 2・3番線ホーム跡(2007年1月8日撮影)
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/22 14:44 UTC 版)
専用軌道の跡地である「廃軌道」上、桃園神社へ至る東西の道と交わる手前に駅が存在した。ここは現在も道がやや変形しており、今諏訪駅以降の駅では比較的分かりやすい方である。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 13:58 UTC 版)
専用軌道の跡地である「廃軌道」上に跡が存在する。駅の直前、「在家塚」交差点で4車線の道路が終わり、また前のように2車線の道に戻ってカーブの真ん中あたりにある建物に挟まれた空き地が駅の跡である。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 13:57 UTC 版)
専用軌道の跡地である「廃軌道」上、上述の通り役場のすぐそばにあったため、場所の特定はさほど難しくない。現在櫛形町の町役場が合併によって変更された南アルプス市の市役所の南側が駅のあった場所である。 ただし小笠原の市街地がその後西側にも広がったため、周囲の景観は一変しており、当時は郊外との境目であった駅跡も現在では充分中心部の一部と化して駅のにおいをうかがわせるものはない。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 13:58 UTC 版)
専用軌道の跡地である「廃軌道」上、県民の森入口交差点の南東角が駅のあった場所である。小笠原駅と同じく、峡西病院の南東部に当たる場所という目標物があるため、場所の特定はさほど難しくない。
※この「廃線後の状況」の解説は、「小笠原下町駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 14:00 UTC 版)
駅は専用軌道の跡地である「廃軌道」上、中部横断自動車道を越えた少し先にあった。しかし西野駅同様、「廃軌道」自体が4車線の大通りになってしまったため、痕跡は一切残されていない。
※この「廃線後の状況」の解説は、「在家塚駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 14:01 UTC 版)
専用軌道の跡地である「廃軌道」上、月星商事山梨営業所の前周辺が駅のあった場所である。駅のあった場所には高速バスの停留所があり,また敷地は高速バスの利用者のための駐車場として利用されているためわかりやすい。
※この「廃線後の状況」の解説は、「古市場駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 14:00 UTC 版)
専用軌道の跡地である「廃軌道」上、「櫛形町桃園」交差点周辺に駅が存在した。しかしやはり明確な痕跡はなく分かりづらい。周辺は住宅地化し、かつての町はずれじみた雰囲気はなくなっている。
※この「廃線後の状況」の解説は、「倉庫町駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 14:00 UTC 版)
専用軌道の跡地である「廃軌道」上、街道の「荊沢」交差点から東西に走る道路との交差部にある高原会介護相談室の北側にあった。当時の荊沢駅を北側から撮影した写真の線路のカーブと東西の道路の配置を、現在の廃棄道と照合することにより場所の特定はできるが、附近には駅の跡を示すくぼみもなく、駅の痕跡を見出すことは難しい。
※この「廃線後の状況」の解説は、「荊沢駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 14:00 UTC 版)
駅は専用軌道の跡地である「廃軌道」上、西野交差点の手前の農協の倉庫がある前にあった。この農協自体は上述の通り当時からあるもののため、比較的場所そのものは分かりやすい。 ただし「廃軌道」自体が完全に整備されて4車線の大通りになってしまったため、甲府市・甲斐市側と違って駅の部分だけがくぼんでいるなどの痕跡は一切残されていない。
※この「廃線後の状況」の解説は、「西野駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 13:59 UTC 版)
専用軌道の跡地である「廃軌道」上、県立巨摩高校の南側を通る東西の道と交わる南側、明穂変電所の近くにあった。桃園駅と同じように道がやや変形しているほか、駅の北西に建っていた鉄塔が現在も使用されているなど、細かいところで当時の面影が残っている。 滝沢川橋梁はそのまま再利用されることはなく、新たに道路橋として架け替えられ、現在は「桜橋」という名になっている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 04:34 UTC 版)
1990年代初めまでは大部分が未舗装の生活道路として利用されていたが、土地区画整理事業により次第に姿を消している。特に日鉱幸崎 - 日鉱本幸崎は国道197号のバイパス道路建設とJR幸崎駅の専用線が撤去され宅地化されたことにより一気に痕跡を消して行った。逆に日鉱大平付近などは未舗装の生活道路やそのまま利用されている橋桁など廃線跡の情緒が残る風景を現在でも提供してくれる。 日鉱辛幸から日鉱金山にかけては、サイクリングロードとして整備されていたり、当時のトンネルがそのまま使用されていたりと、廃線跡がうまく再利用されている姿を確認することができる。なお、佐賀関線には4箇所のトンネルがあった。そのうち現在でも現役で使用されているのは大志生木トンネルと金山トンネルの2つで、蛍光灯の付け替えなど管理がなされ、地元の人達の利用も多い。残りの小志生木トンネルと古宮トンネルは完全にコンクリートブロックで塞がれてしまっている。 日鉱佐賀関駅は現在の大分バス佐賀関バスセンターにあたり、手前のカーブで旅客線と貨物線が分岐していた。貨物線はそのまま佐賀関駅の入口前(現在歩道となっている部分)を通り、佐賀関製錬所敷地内まで通じていた。1980年(昭和55年)頃に最後まで残っていた貨物線のレールが撤去され、周辺整備の前までは道路に割り込むように白いコンクリートの帯が製錬施設の中まで伸びて廃線跡であることを主張していたが、道路拡張の際に消滅した。 日鉱幸崎駅跡付近この空地そのものは日鉱幸崎駅と直接の関係はないが、その名残であった幸崎駅の貨物施設のあった場所である。廃線跡は1990年代後半まで新興住宅地に取り込まれつつも草木に隠れて築堤が存在していたが、現在は完全に宅地化され消滅している。 日鉱本幸崎駅跡(写真中央)国鉄バス「本幸崎」であったバス停は大分バス「神崎中学校」に変更されている。かつては見通しの良い直線であった線路跡も、国道197号のバイパス道路によって視界を絶たれてしまっている。 廃線跡は生活道路国指定史跡「築山古墳」入口前でバイパスを抜け出した廃線跡はしばらくアスファルト道路に変貌しているが、日鉱大平駅が近付くと未舗装になり、1980年代から変わらぬ風景を提供し始める。 日鉱大平駅跡写真中央の消火栓付近が駅跡である。 列車撮影適所跡幸崎を出て初めて海岸線に出る。現在はこの付近も遊歩道として整備が進み、各所で舗装が始まっている。 今でも現役の元鉄橋軽便鉄道の単線が通っていた鉄橋という性質上、幅は狭く、歩行者と自転車の往来がやっとである。長年海風に晒されたことによって傷みが激しくなり、至る所で補修または架け替えられている。 日鉱大志生木駅跡付近駅は写真の建物の裏にある幼稚園付近。 大志生木隧道日鉱大志生木駅を出るとトンネルがある。併走している国道197号は山を削った切り通しになっており歩道は車道と白線で区切られただけである。このトンネルは危険な国道を避けるための人道として今も壁面の補修や蛍光灯の整備が行われ、地元の人に利用されている。 日鉱小志生木駅跡付近トンネルがやや海に向かっているが、当時の海岸線は現在よりも山寄りで、駅も旧道沿いにあった。道路整備の前までは国鉄バス停留所の前に日鉱幸崎駅跡と同様のプラットホームが存在していたが、消滅してしまった。写真の緑地帯は駅跡を潰した後に設置されたものであり、当時の様子を窺い知ることはできない。 小志生木隧道跡日鉱小志生木駅からそのまま海岸線を進み、国道の下を潜ってトンネルに入って行く。1980年代まではトンネルの入口に簡単な障害物が置かれているのみであったが、中に当時使用されていた鉄道資材などが置かれているという噂が立ち、侵入する者が現れたため、コンクリートブロックで完全に塞がれてしまった。 日鉱辛幸駅跡付近日鉱辛幸駅跡付近からはサイクリングロードとして整備されている。壁沿いに草木に覆われたコンクリートの帯が伸びているが、これは廃線跡の全線に渡って埋設されている工業用水道の水道管である。 パンパシフィック・カッパー佐賀関製錬所サイクリングロードを進むと、やがて終点となるパンパシフィック・カッパー(PPC)(旧日鉱製錬)佐賀関製錬所の通称「大煙突」が見えてくる。 古宮隧道跡サイクリングロードはそのまま海岸線を佐賀関に向かって延びているが、水道管は途中で突然山の中に消える。その先には、やはりコンクリートブロックで塞がれたトンネルを発見することができる。廃線跡を辿るのであれば、道を辿るのではなく水道管を辿ることになる。 古宮隧道国道197号の古宮隧道下に佐賀関側の入口跡がある(写真中央)。廃線後しばらくは生活道路の終点ということで放置され草木に覆われていたが、皮肉なことにバイパス道路建設により手前部分の廃線跡が整地されることで容易に近付けるようになった。日鉱古宮駅は国道九四フェリー乗場入口付近にあったが、完全に消滅している。日鉱金山駅は佐賀関病院(製錬所病院→佐賀関町立病院→現在は移転)の前にあったが、これも痕跡を見出すことは難しい。 日鉱佐賀関駅海が埋め立てられ道路も整備されてしまったため、往時を想像することは難しいが、写真中央にコンクリートで舗装されている部分があり、これがかつての海岸線である。正面の大分バスが停車している所から写真左は海であった。線路は写真の撮影地点付近で分岐していた。旅客線は写真中央にある現在の佐賀関バスセンター(日鉱佐賀関駅→国鉄バス佐賀関駅→JRバス佐賀関駅→現在)へと至っていた。貨物線は右手の現在歩道となっている部分を通り、佐賀関駅の入口前を抜け、車庫(機関車格納庫→国鉄バス車庫→JRバス車庫→廃止)前を通って製錬所の敷地内へと至っていた。この付近からは道路と重なっており、路面電車の軌道のように敷設されていた。 製錬所正門終点。写真中央右の時計がある辺りに施設があり、貨物線が引き込まれていた。(建物は写真の時計背後の建物に付属するような形で存在していた)廃線後も、道路には白いコンクリートの帯が旅客駅前から直線状に延び、現在守衛の詰所となっている辺りから急カーブを描いて建物の中へと通じていた。ここも道路拡張の際に完全に消滅してしまった。
※この「廃線後の状況」の解説は、「日本鉱業佐賀関鉄道」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/27 23:09 UTC 版)
荒尾 - 小田峯間は市道に、小田峯 - 本村間は自転車歩行者専用道に、本村 - 緑ヶ丘間は一般道路の歩道にそれぞれ転用されている。また、途中の浦川に架かる竹下橋梁は数少ない遺構である。
※この「廃線後の状況」の解説は、「荒尾市営電気鉄道」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/02 22:36 UTC 版)
1974年(昭和49年)に全区間が廃止されたのちは、跡地に中町公民館が建っており(白岩駅跡の石碑もある)、線路跡は農道となっている。駅当時の面影はない。
※この「廃線後の状況」の解説は、「白岩駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/06 09:23 UTC 版)
路面区間の電停ということもあり元から痕跡は残っていなかったが、道路だけは2車線で最近まで狭い状態のままであった。しかし1999年頃から拡幅工事が始まり、建物も軒並み建て替えられて現在では5車線になって面影をしのぶよすがすらない。 なお電停名の「泉町」は本来この美術館通り沿いの町名であったが、町名整理で「丸の内」と「相生」に吸収されて消滅している。通り沿いの「丸の内郵便局」も以前は「泉町郵便局」であった。
※この「廃線後の状況」の解説は、「泉町駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/27 17:50 UTC 版)
阿木川支流である濁川沿いには大井線の掘割や橋梁の跡が残っており、2009年(平成21年)8月21日には大井線の歴史を説明する看板を岐阜県道401号恵那峡公園線恵那峡口交差点付近に設置している。
※この「廃線後の状況」の解説は、「北恵那鉄道大井線」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 04:56 UTC 版)
西浜田駅 2番線の奥にさらにホームがあった。現在はそこにもう一本ホームがあったようには見えなくなっている。 山陰本線との分岐点付近 江川川橋梁付近にポイントの跡があり、現在も見ることができる。そばを列車が高速で通過する。 山陰本線との分岐点より100m先 小さな竹林になっている。レールは撤去されていると思われる。 県道との分岐点より北側の部分 上にある写真の道路脇の草むらが廃線跡と思われる。 ※県道との分岐点より北側の部分と、山陰本線との分岐点より100m先の部分は列車からも見ることができる。
※この「廃線後の状況」の解説は、「浜田港線」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/13 09:40 UTC 版)
道路そのものが旧国道16号で拡張を受けており、電停の痕跡は残されていない。
※この「廃線後の状況」の解説は、「五味貝戸駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 18:57 UTC 版)
廃線直後に行われた国道33号の拡幅改良工事やその後の旧沿線の発展に伴って、終点および起点付近を除きほとんどの遺構は残されていない。 廃線後、沿線およびその延長上である砥部町が松山市のベッドタウンとして大きく発展。さらに、1979年(昭和54年)に愛媛県総合運動公園陸上競技場(ニンジニアスタジアム。愛媛FCのホームスタジアム)、1988年(昭和63年)にはとべ動物園といった大型集客施設が建設された。これらの要因により、国道33号の渋滞は激化の一途をたどっていった。そして、これに拍車をかけるように1997年(平成9年)には松山自動車道松山インターチェンジが開通。国道33号は廃線区間とほぼ一致する天山交差点から拾町交差点にかけて連日大渋滞を引き起こしている。 代替輸送機関とされた路線バスについては、現在でも伊予鉄バスとJR四国バス(国鉄バスの路線を継承)によって、立花駅前 - 森松間において約15分間隔で運行されている。これは、伊予鉄バスの北条線や空港線、10番線などと並んで四国地区で最も高頻度運行が行われているバス路線(区間)のひとつとなっており、運行時間帯も6時台 - 23時台と、利便性は高い。 しかしながら、先述した渋滞などにより、ラッシュ時間帯を中心に定時運行を行うのは難しくなっているのが実情であり、オムニバスタウン事業による施策のひとつとして、公共車両優先システムの導入をしているものの、抜本的な解決には至っていない。 このようなことを背景に、森松線を復活させ砥部まで普通鉄道やLRTで延伸するという構想があるものの、既に沿線の都市化が進み用地確保が事実上不可能であることに加え、巨額の財政支出は困難として具体化の動きはない。
※この「廃線後の状況」の解説は、「伊予鉄道森松線」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/29 15:18 UTC 版)
荒川が1920年(大正9年)より37年の歳月をかけて大改修を受けたことにより、黒須電停の先に残る旧流路から先の廃線跡は完全に潰滅状態と化しており、廃線どころか当時の道すら影も形もない状態である。 このような状況からみても、痕跡はおろか場所の比定すらほぼ不可能な状態であり、下手をすれば川底に沈んでいる可能性すらある。
※この「廃線後の状況」の解説は、「芝地駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/12 06:04 UTC 版)
他の専用軌道の駅と同様に跡地である道路「廃軌道」上に跡地がある。駅跡は「開国橋西」交差点と「上今諏訪」交差点の中間点、交番と「上今諏訪」バス停のある場所に道路のくぼみとして残されている。ただし近年行われた拡幅工事の影響で、ここの部分の「廃軌道」は大幅に拡張されてしまい、これまでの駅跡地と雰囲気を異にしている。 ここから「廃軌道」は4車線の大通りとなって西に進んで行き、この状況が甲斐飯野駅まで続く。
※この「廃線後の状況」の解説は、「今諏訪駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 06:19 UTC 版)
北恵那鉄道は北恵那交通に改称。中津川市を中心に路線バス、観光バス、タクシー、トラックを運行していたが、2013年までに路線バス以外の事業を他社に譲渡し撤退。現在は路線バス専業となっている。 中津町駅と恵那峡口駅の間にあった木曽川橋梁は、現在もその姿を残している。 2002年1月に終着の下付知駅駅舎が解体された。 廃線跡散策のイベントが時々開催されている。 中津川市福岡に鉄道歴史保存会館が建てられた。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 04:07 UTC 版)
路線跡は道路(岐阜県道381号多治見八百津線、岐阜県道358号井尻八百津線など)になっている。蘇水峡橋は、元鉄道橋梁である木曽川橋梁を転用したものである。蘇水峡橋の東にあるトンネルは、鉄道トンネルを転用したものである。当時はトンネル内でスイッチバックを行っていたため、トンネルの出口が2つあるという全国でも希に見る構造となっている。丸山水力発電所内には線路が残っている。2021年8月28日現在、蘇水峡橋工事のため、蘇水峡橋付近は通行出来なくなっている。なお工事は9月30日終了の予定。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 20:26 UTC 版)
金石駅の跡地は北陸鉄道のバスターミナルとして1971年12月16日に完成し。また、大野港駅の跡地はバス停・転向場として現在でも利用されている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 06:44 UTC 版)
専用軌道の跡地である「廃軌道」上にあったが、附近には駅跡に酷似したくぼみがいくつもあり、分かりづらいものとなっている。また長沢の市街も西側に広がり、郊外との境目であった当駅周辺の景観も一変している。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 06:45 UTC 版)
専用軌道の跡地である「廃軌道」上、上行ここが駅跡であることが推定できる。 駅の南にあった利根川をくぐる隧道は、後に利根川が改修されて天井川から通常の川となったため取り壊され、現在は見ることが出来ない。なお、利根川改修の際に北側の河川敷に「利根川公園」が開設され、江ノ島電鉄で廃車された後に里帰りした当線のモハ8が静態保存されている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 06:48 UTC 版)
路面区間の電停ということもあり痕跡はない。また街路も5車線と拡幅され、電車通りであったことすら想像することが困難である。当時の建物も全滅状態でビルに化け、北側の食品市場は廃止となって現在駐車場となっている。 なお当電停は本来「相生町」の北西端にあり、ぎりぎり町域に引っかかっている状態であったが、住居表示と町名整理で「相生」として町域が大幅に拡大し、現在では隣の泉町電停まで「相生」の地内である。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 06:47 UTC 版)
「警察署前駅 (山梨県)」の記事における「廃線後の状況」の解説
路面区間の電停ということもあり痕跡はない。また街路も2車線、カラー石畳の舗道つきの道路として整備されており、かつての雑然とした雰囲気は消滅した。これは電停の北側、甲府寄り交差点の手前部分も一緒である。 警察署などの官公庁、北側の商店街や「談露館」は変わらず存在しているものの、「談露館」が旅館からホテルへ模様替えしたのをはじめとして全ての建物が改築されて当時からの街並みは軒並み消滅し、明確に当時からの建物と言えるのは、電停手前の交差点北西角にある市役所別館(旧甲府郵便局)のみであったが、この建物も甲府市役所新築工事に伴い2010年に解体され、当時の建造物は完全に消滅した。 また裏通りであった舞鶴通り延伸部も、その後舗装の上鉄橋により中央本線を越えて北口側へ通じるようになり、人や車が平和通り並に行き交う幹線道路へと変貌した。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 06:44 UTC 版)
専用軌道の跡地が富士川町の町役場へ通じる道にぶつかり、唐突に行き止まりになった先が駅跡である。 かつては駅舎が残り、山梨交通の乗合自動車の転回場が設けられていたが、現在では駅舎・転回場ともに撤去され、手前側がコンビニ、奥が町民会館となって街並みの一部と化し、駅の痕跡はまったくない。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 19:37 UTC 版)
ほとんど柵や万能塀により他所からは遮断されているが、駐車場や日中のみ開放の花壇つき遊歩道(山王みどり公園)になっている所もある。ホームレス対策の無料宿泊施設などにも利用されていたが、2018年10月までに撤去され、現在は更地や駐輪場である。部分廃止区間のうち天下茶屋駅寄りにはアパートが建っており、天下茶屋駅付近は道路に転用されている。跡地は現在も南海が所有しているため、跡地の周囲には所々に土地境界標がある。 天王寺駅付近の架線柱や線路は廃線から20年以上も放置されていたが、2014年ごろに撤去され、線路跡はアスファルトで舗装された。しかしながら、廃線まで使われていた標識やレールの一部が現在もそのまま残されており、跡地に並行するJR線の車窓から見ることができる。1984年まで使われていた南海天王寺駅19番線・20番線があった場所には後に商業施設「天王寺ミオ」が建設された。 廃線跡(天下茶屋駅→天王寺駅) 天下茶屋駅付近の廃線跡(2007年8月) 天下茶屋駅付近(2010年) 天下茶屋駅付近(2010年) 大阪市西成区天下茶屋1丁目付近(2010年) 大阪市西成区天下茶屋1丁目付近(2010年) 大阪市西成区天下茶屋1丁目付近(2010年) 大阪市西成区天下茶屋1丁目付近(2010年) 大阪市西成区天下茶屋北2丁目付近(2010年) 大阪市西成区天下茶屋北2丁目付近(2010年) 大阪市西成区天下茶屋北2丁目付近(2010年) 大阪市西成区天下茶屋北2丁目付近(2010年) 大阪市西成区萩之茶屋3丁目付近 三角公園横(2010年) 大阪市西成区太子1丁目付近(2010年) 大阪市西成区太子1丁目付近(2019年) 大阪市西成区山王1丁目(山王みどり公園)付近(2019年) 大阪市西成区山王1丁目(山王みどり公園)付近(2019年) 大阪市西成区山王1丁目(山王みどり公園)付近(2010年) 大阪市西成区山王1丁目付近(2019年) 大阪市西成区山王1丁目付近(2010年) 大阪市西成区山王1丁目付近(2010年) 大阪市西成区山王1丁目(東横インあべの天王寺)付近(2019年) 大阪市西成区山王1丁目(東横インあべの天王寺)付近(2010年) 大阪市西成区山王1丁目(東横インあべの天王寺)付近(2010年) 天王寺駅付近の廃線跡(2007年8月) 天王寺駅付近の廃線跡(2010年) 天王寺駅付近の廃線跡(2019年)
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 21:16 UTC 版)
廃線後の鉄道敷は道路に転用され、今日でもその痕跡が地図上で確認できる。終点の鐺山駅は宇都宮東警察署鐺山町駐在所跡地(鐺山松原歩道橋)から北西約200m付近に位置しており、現在、プラットホームの一部が残存している。 なお、この道路は現在も沿線住民の間で「線路道」「鉄道道」「汽車道」等の通称で呼ばれている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/04 03:50 UTC 版)
「日本専売公社小田原工場専用線」の記事における「廃線後の状況」の解説
架線柱がそのまま残る廃線跡 地域住民の通り道として利用されている廃線跡 1984年3月に廃止された後、線路敷地はしばらく軌条(レール)を撤去しただけで放置されていた。線路跡地については1999年ごろに小田原市が譲り受け、足柄駅に隣接する部分を除いて「久野緑の小径」と称する遊歩道として整備された。足柄駅に隣接する部分は特に整備されておらず、地域住民の通り道として利用されているが、架線柱などが残存しており、張力を失った状態で架線が垂れ下がっている。 工場内の設備については、軌条が撤去されたあとも、荷役ホームが使用されないまま残されていたが、喫煙者の減少による日本たばこ産業の事業再構築に伴い、2011年3月末で小田原工場は閉鎖され、その後工場自体が解体された。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 23:42 UTC 版)
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 04:14 UTC 版)
焼山 - 歌志内では、廃線跡がサイクリングロードとして整備されている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 23:42 UTC 版)
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/13 05:09 UTC 版)
前駅の紀伊野上駅までは、貴志川の北岸に沿って清流を眼下に見下ろす景勝地だった。 次駅の龍光寺前駅までは、丘を切り開いて線路を造ったところで、一見トンネルの様な特異な構造の跨線道路橋があった。廃線後も線路跡が残っていたが、野上小学校の改修に伴い、一部の線路跡がコンクリートで埋められてしまった。更に、国道バイパスの供用に伴い駅部分は既設道路との接続道が分岐する交差点に、上記掘割部も完全に埋め戻されて国道バイパスとなっている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/13 05:09 UTC 版)
動木駅との間は丘を切り開いて線路を造ったところで、一見トンネルの様な特異な構造をもつ跨線道路橋があった。野上小学校の改築に伴い、一部の線路跡がコンクリートで埋められた。 現在は国道370号バイパスに線路敷および駅跡地が転用されたため、上記掘割部は完全に埋め戻されている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/13 19:19 UTC 版)
線路は廃止の直後、東武鉄道側から「返還を求めている地主もいるので早く撤去願いたい」と要請されたこともあり素早く撤去されたようで、線路敷自体も廃線3年後の1960年7月31日付で一斉に用途廃止処分にして売却してしまっている。 しかし近年、鉄道同人誌内に当時の公文書が掲載され、それによると『川越砂利採取事業所に地主が土地返還の陳情をおこない、川越砂利採取事業所が東武鉄道に打診をおこなった結果、東武鉄道が撤去に同意したので砂利採取事務所に設備撤去を上申した』と定説とは逆の内容であった。 その処分の早さと、その後の霞ヶ関・的場地区の急速な住宅地化により廃線跡は完全に消滅しており、霞ヶ関駅の側線が「かすみ自動車教習所」の敷地の一部となっているということ以外には満足に跡地を比定できない状態である。川越線をアンダークロスしていた部分のコンクリートのガードが現役で残されているのが唯一の遺構である。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 17:32 UTC 版)
廃止後、西都城駅付近の公園から岩北駅付近までの区間が自転車・歩行者用道路として整備されており、西都城駅 - 県境付近までの区間(約6km)には「志布志線ウェルネスロード」、県境から岩北駅付近までの区間には「マインドロード末吉」の名称が付けられている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 01:30 UTC 版)
詳細は「かしてつバス」を参照 傍系のバス会社「関鉄グリーンバス」は、鹿島鉄道線廃止日の2007年(平成19年)4月1日より、旧鉄道線にほぼ沿った形で路線バス(かしてつバス)の運行を開始し、旧鉄道利用者の代替交通を確保している。走行できる道路の関係上、借宿前駅に限り代替バスが補完していない。また、旧駅名と停留所名は必ずしも一致していない。 なお代替バスには、鹿島鉄道線にされたような自治体による財政支援は今のところ行われていない。その他、2007年(平成19年)4月1日実施の運行ダイヤグラムでは、新鉾田駅への運行はされていなかったが、2012年10月1日より一部時間帯に限り新鉾田駅への延伸運行が開始された。鉄道時代よりも利用客が減少しているため、利用実態に合わせた路線の再編が検討されている。 鹿島鉄道代替バス1日フリー乗車券(発売額は鉄道時代と同じ)が発売されている。普通運賃については鹿島鉄道の運賃とそれほど差がないため特別な割引運賃はないが、通学定期運賃の割引率については、上昇率を緩和するため、通常40%のところを2007年(平成19年)4月1日から2008年(平成20年)3月31日までは50%、2008年(平成20年)4月1日から2009年(平成21年)3月31日までは45%と期間を定めて割引運賃を設けている。 線路跡地(石岡駅 - 常陸小川駅間)は、路盤を取り払った後、茨城空港(百里飛行場)へのバス専用道路(かしてつバス専用道)となり、2010年(平成22年)8月30日に専用道経由のバスの運行が開始された。 廃止後に走っている代替バスは、元々自動車交通量の多い国道355号を走行する関係で、定時性が保てず、利用者が伸び悩んでいた。そのため、線路跡地を利用してBRT として事業化したものである。国・茨城県・および代替バス会社などからなる検討委員会による、開業前の沿線住民へのアンケート結果では、利用客は鉄道時代と同じくらい見込め、維持費の安い路線バス運行により採算が取れるとしている。 かしてつバス かしてつバス専用道
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:35 UTC 版)
旧藤相鉄道区間の路盤跡の多くは、静岡県道375号静岡御前崎自転車道線の一部として転用されている。 新藤枝駅構内跡地は静鉄バスのバス乗り場・待機所と市営駐車場になったが、2016年の区画整理によってどちらも移設された。また、平成に入ってから静鉄不動産のアパートやマンションが相次いで建てられた。 国鉄との跨線橋の築堤は廃線後に取り壊され、サンライフ藤枝の駐車場となっているが、藤枝駅から跨線橋へ向かうカーブはほぼそのままの形で残っている。 大井川に架かっていた橋の跡は、藤枝寄りと相良寄り双方に橋台が残っている。また木製橋脚の残骸と、道路併用橋の頃の富士見橋の橋脚の基部が国道150号線富士見橋から川の中に転々と残っているのを見ることができる。大井川両岸が痕跡が比較的多く確認できる。 旧中遠鉄道区間については、袋井駅からしばらくは県道の拡幅用地とされている。一部の区間は道路改良や区画整理のために線路跡が無くなっている所もあるが、ほぼ当時の線路跡に沿っているので、追跡は簡単である。袋井駅の線路敷自体は駐車場となり、往時をしのばせる。数年前まで袋井工場に隣接していたコンクリート造りの倉庫(駿遠運送)があったが、現在はすべて撤去され、葬祭会館の敷地となっているが、駅から柳原駅跡へ向かうカーブはほぼそのままの形で残っている。 新袋井駅から柳原駅間(現袋井市高尾)にある、東海道新幹線が駿遠線と立体交差した架道橋(現静岡県道41号袋井大須賀線)には「駿遠線架道橋」と名前が付けられている。1964年10月1日に開通した新幹線は、1967年8月28日に旧・中遠鉄道区間が廃止するまで駿遠線とすれ違う姿も見られた。(歩道の位置が線路の跡である)。新幹線との立体交差は藤枝市高洲にもあった。 旧浅羽町区域では、袋井市浅羽支所付近まで自転車道として整備されている。ところどころに、廃線跡であることを示すプレートが埋められている。 浅羽支所より先は、同じく自転車道として整備されているが、こちらはただアスファルト舗装しただけとなっている。 五十岡駅、石津駅のホームが残っている。近年まで新三輪駅のホームも残っていたようだが、堤防改修時に撤去された模様である。 駅跡に駅名標を模したモニュメントが建っている所も多い。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 18:57 UTC 版)
来迎寺駅-小千谷駅(来迎寺駅前-片貝-小粟田-小千谷駅前)を結ぶ越後交通のバス路線は2014年12月時点で存続している。(越後交通 長岡駅前=前川=免許センター=来迎寺=片貝=小千谷車庫線) 新潟県道10号長岡片貝小千谷線のバイパス道路である片貝バイパス等、廃線敷の大半が道路に転用されている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 06:53 UTC 版)
元々の路線が併用軌道であったこともあり、大部分の区間が道路に転用されているほか、区画整理によって線路跡自体が消滅している所も存在する。線路跡として明確に判る部分は、袋井町 - 永楽町間の沖ノ川橋梁が道路橋に転用されている程度である。なお袋井駅前には、駅前の再開発事業に伴い解体撤去されるまでは秋葉線の駅舎がバスの待合室兼案内所として存置されており、改札口のラッチなどもそのまま残っていた。原野谷川に掛かる橋梁も、廃止後長らく歩行者と自転車専用道路に転用されていたが、1985年頃の台風による増水で一部が流失し、その後撤去され現存しない。 秋葉バスサービスの本社車庫は秋葉線の遠州森町駅跡に位置する。 2014年(平成26年)11月30日、JR東海東海道本線の袋井駅の新駅舎が完成し、北口は秋葉線の起点駅があったことから『秋葉口』という愛称が付けられた。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 01:51 UTC 版)
洲本駅はかつての洲本バスターミナル及び淡路交通本社にあたる。また、西側にあるガソリンスタンドは鉄道・駅廃止から半世紀以上が経過した2022年現在でも「洲本駅前SS」を名乗る。また、付近の電柱の管理番号の地名には「駅前」または、「エキマエ」と書かれているものがある。 宇山駅は現在の淡路交通バスの車庫になっている(宇山車庫・宇山第2車庫)。2020年2月1日に本社運輸部・洲本営業所が旧洲本駅から旧宇山駅付近に移転している。 淡路二本松駅跡の道路交差点名は駅名と同じ「二本松」である。ただしバス停の二本松は少し南に離れた旧国道側にある。 下加茂駅跡(下加茂バス停)にプラットフォームが最近[いつ?]まで残っていたが県道工事により撤去された。 納駅から広田駅にかけての旧緑町内の区間の一部の廃線跡は道路に転用されず、そのままあぜ道や、築堤として残っている。 福良駅は現在の福良バスターミナルにあたる。廃止後も長らく旧ホームがバス乗り場として使われたが、老朽化により、現在の建物に建て替えられた。 洲本 - 福良間の線路跡をたどって行くと河川や、用水路を跨ぐ部分に石造りの橋脚跡が複数見られる。一部は上に木の板や、コンクリートを載せられ現在も歩行者のみの橋として利用されている。 1992年には先山駅で下内膳遺跡の発掘調査が行われた 二本松、長田、一本松、賀集など、道路となった駅跡は交差点に転用された場所も多く、今でもその部分は道路幅が広い。 信号機や踏切警報機や車両部品の一部は廃線後、長野県の上田交通(上田丸子電鉄)に売却された
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 02:17 UTC 版)
丸子町駅 - 電鉄大屋駅間は廃止後丸子町道(現在は上田市道)として整備された。また鉄橋はアスファルトが敷き詰められ大石橋として転用されていたが、2001年に台風により橋脚流失で一部崩壊したため、解体された。現在は道路橋としての大石橋が完成し使用されている。解体の後、大石橋の部材の一部は保存され、2007年に旧丸子町内の内村川にかかる歩道橋(新名称:りんどう橋)として、移転・再生されている。 八日堂駅 - 電鉄大屋駅間の信越本線並行区間の一部は、信越本線の複線化用路盤に転用された。 丸子線の廃止後、長らく上田交通による代替バス(緑ヶ丘西 - 上田駅 - 大屋駅前 - 丸子町)が運行されていたが利用者の大幅な減少を受けて1995年頃に撤退している。丸子線の区間に相当する路線バスは、千曲バスの鹿教湯線(下秋和 - 上田駅 - 大屋駅前 - 丸子町 - 鹿教湯温泉)がある。 路線の両端の駅であった上田東駅と丸子町駅跡はそのまま上田交通の土地となったが現在はどちらもチェーン店のドラッグストアとなっている。なお、現在でも丸子町駅跡のバス停の車止めにかつてのレールが使用されており当時を偲ぶ貴重な遺産となっている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:59 UTC 版)
跡地は翌1963年(昭和38年)に山交百貨店とバスターミナルが移転し、さらに1989年(平成元年)にスペースを埋めるように改築を行なったため原形は留めていない。線路が舞鶴通りに出ていた部分も、中央本線を跨ぐ舞鶴陸橋の架設により遺構は確認できない。なお、山交百貨店は2019年(令和元年)9月に閉店されている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 13:58 UTC 版)
「日立電鉄2000形電車」の記事における「廃線後の状況」の解説
廃線後は、2212編成・2002編成・2005・2216編成・2008編成(ビア電編成)・2010編成・3021・3022・3024が常北太田駅に、2214編成・2004編成・2006編成・2217・3025編成・3027が久慈浜駅に留置された。各車両の機器・台車の一部は他私鉄に売却されている。また、鉄道ファン向けの部品即売会の為に方向幕・ワンマン表示灯・前照灯・尾灯カバーなどが取り外された。 3023は2005年12月に日立市内の模型店に移設、保存されていたが、2016年に解体。また、3025も保存の話があったが白紙となっている。3023以外の車両は常北太田駅・久慈浜駅留置車とともに2006年7月までに解体処分され、現存しない。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/17 14:16 UTC 版)
専用軌道の跡地である「廃軌道」上に駅の跡地がある。下宮地公民館の南側に窪地があり,小笠原下町からの距離等を考慮するとこれが駅跡であると思われる。ただし,昭和30年代の駅名標の前で撮影された女性のポートレート写真では、左側が小笠原下町となっていたので「廃軌道」を挟んだ東側にあった可能性もある。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 09:39 UTC 版)
大仏線廃止以降、木津町内区間は町道下梅谷鹿背山線として里山内の生活道路として利用されていた。 UR都市機構の実施する関西文化学術研究都市の木津精華地区のクラスターの一つである木津中央地区(現:城山台ニュータウン)の開発により、町道下梅谷鹿背山線の拡幅が計画されていた。これにより、赤橋、梶ヶ谷隧道の2つの近代土木遺産の取り壊しの危機にあった。これを保存するため「鹿背山の 大仏 鉄道 遺産に親しむ会」(京都府木津川市鹿背山、冨永禎一会長)が発足し、2008年1月19日に木津川市と都市再生機構(UR)西日本支社に現状保存の申し入れが行われた。これにより、大佛鐵道記念公園に隣接して、2つの大仏鉄道の史跡が保存されることとなった。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 14:28 UTC 版)
道路そのものが埼玉県道2号さいたま春日部線(旧国道16号)で拡張を受けており、電停の痕跡は残されていない。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 14:01 UTC 版)
簡易舗装の小道であり、何も痕跡は残されていない。 ここから先、廃線跡は大宮駅西口DOMショッピングセンターの北側から南側を縁取るように直角に曲がり、終点大宮駅を目指している。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 13:56 UTC 版)
電停直前まで埼玉県道2号さいたま春日部線(旧国道16号)の広い道が続くが、「所沢新道」バス停付近から南にそれ、細い道となって廃線跡が出現する。ただし電停や貨物側線自体の痕跡は存在しない。 電停から先、交差点を過ぎた先で廃線跡はいったん途切れるが、大宮駅西口DOMショッピングセンターの西側で再度出現する。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 14:25 UTC 版)
道路そのものが埼玉県道2号さいたま春日部線(旧国道16号)で拡張を受けており、電停の痕跡は残されていない。この先、大成電停までこの状態が続く。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 14:23 UTC 版)
電停そのものの痕跡は存在しない。前後の廃線跡も、前電停の芝地電停の跡地が推定すら不可能なほど残っていない状態であるが、それでも荒川を越えてしばらく東へ進んだところから廃線跡が出現する。 起点は上江橋の東詰、ゴルフ場のために明瞭でないが、ゴルフ場の外周の道から練習場の中央を通って高木集落へ向かう道が廃線跡となる。本来はこの道が県道に交わり、川越線をアンダークロスすることになるが、荒川の堤防のために道が寸断されており、その部分の廃線跡も破壊されている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 00:23 UTC 版)
野上中駅跡地付近から登山口駅跡地まで国道370号のバイパスとなり、供用中。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/07/19 09:38 UTC 版)
専用軌道の跡地である道路「廃軌道」上に跡が存在する。小僧寿しの斜向かいにある巨大なテナントビルの前が駅跡で、やはり道路から一段凹んでいるが駐車場として流用されているため分かりづらい。周囲は商店混じりの住宅地となっている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/21 22:23 UTC 版)
廃線後は元々が安全地帯もない状態だったこともあり、電停それ自体の痕跡は残されていない。「荒川橋」のバス停がちょうど電停のあった橋の真ん中に位置しているのが電停の名残だという。 専用軌道への突入部は現在も残されているばかりでなく、そこから先の廃線跡自体が県道として使用され、「廃軌道」と呼ばれている。甲府駅南口からここを経由して甲斐青柳駅のあった富士川町青柳地区を通り、鰍沢へ抜けるという電車線そのままのルートを取る乗合自動車も運行されている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 02:18 UTC 版)
1974年(昭和49年)に全区間が廃止されたのちは、山形交通三山営業所(現、間沢待合所)としてしばらくは当時の建物と線路を剥いだだけの敷地を利用して山形 - 鶴岡間などのバスの停留所として利用されていた。また、待合室には三山電鉄のレール、架線ケーブルやタブレットなどが暫くの間展示されていた。昔は町の主要産業の一つであったニット製品がガラスキャビネットの中に展示されていたこともある。 山形自動車道開通前は特急バスも停車する重要な停留所であったが、同高速の開通や建物の老朽化により、1995年(平成7年)頃に建物の取り壊し、周辺道路の拡幅、町の衰退などにより周辺を含めた駅当時の面影はない。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:23 UTC 版)
廃線後、線路は撤去されたものの、市街地などの一部を除いて大部分は廃線跡が確認できるところが多い。現在遊歩道になっていたり、跨線橋があるのはその名残といえる。以下は廃線跡の主な現況である。 長岡駅東口の悠久山方には廃線跡の用地を利用して駐輪場が建てられており、さらにそこから先、栖吉川を渡る地点までは、一部私有地となっている以外は遊歩道として整備されている。国道352号線に面する廃線跡には機関車の車輪を模したモニュメントが設置されている。 新潟県道19号見附栃尾線の見附市から栃尾方面に並行する廃線跡は、刈谷田川を渡る鉄橋から上北谷駅跡までが中部北陸自然歩道ならびに刈谷田サイクリングロードとして整備されている。さらに、2014年(平成25年)、椿沢 - 耳取間に至る3km弱の廃線跡が、並走する見附市道の自転車道として整備完了した。 また、鉄道運行当時上北谷 - 楡原間にあった「牛ヶ額隧道」[要出典]は、新潟県道19号見附栃尾線のトンネルとして現在も運用している。 旧耳取駅付近から国道8号線のバイパスと交差するあたりまでの区間では路盤がほぼ廃線当時のまま残っている。 悠久山、浦瀬、上見附、栃尾の各駅跡では駅舎が営業所社屋(浦瀬駅舎を除く)、バスターミナル、ならびにバス待合所として平成に入るまで利用されており、栃尾駅舎は今なお現役であるが[要出典]、他は2000年頃までに撤去されている。耳取駅ホームにあった待合室が耳取バス停の待合所として健在。(2019年6月現在) なお、越後交通は2019年5月現在、同線にほぼ並行する形で下記のバス路線を運行している。 (急行)長岡駅大手口 - 見附本町 - 小貫(または楡原) - 栃尾車庫 (快速)長岡駅東口 - 新榎トンネル(または桑探峠) - 栃尾車庫 長岡駅東口 - 浦瀬 - 名木野(または耳取) - 上見附車庫 長岡駅東口 - 悠久山公園入口 - 悠久山 長岡駅東口 - 地域振興局 - 悠久山 - 成願寺
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 18:02 UTC 版)
岩代飯野駅の跡地は国鉄バスの自動車駅「飯野町駅」(1992年無人化)が設置され、福島交通の立子山・医大経由福島駅東口行きと(渡利バイパス経由)福島駅東口行き(ジェイアールバス東北船福線廃止代替)、川俣線の廃止代替バス(自治体バス、下記参照)が発着する。2005年に駅跡に建てられていた飯野町駅待合室は取り壊され、簡易な屋根付きベンチが設置されている。現在は、敷地に「いいの交流館」が建てられている。 飯野町公民館敷地脇には川俣線で使用されていたのと同形式の蒸気機関車C12形が静態保存されている。 岩代川俣駅の跡地は記念碑と「元川俣駅資料館」が建てられており、資料館の方は集会所となっている。なお、資料館が建てられる前の1992年ごろまで、現在真岡鐵道で動態保存が行われている蒸気機関車C12 66が静態保存されていた。 以上の岩代飯野駅跡地・岩代川俣駅跡地に静態保存された2両の蒸気機関車C12形は、川俣線の廃止日の最終列車が走った後、松川駅からそれぞれの保存場所まで自走した。 現在の松川駅 - 岩代飯野駅間の廃線跡は、ほとんどが未整備であり、阿武隈川に架かる鉄橋の解体などで歩行困難な箇所もある。岩代飯野駅 - 岩代川俣駅間は、全て2車線の道路に整備されている。川俣町内が一部町道である他、国道114号(川俣バイパス)、福島県道39号川俣安達線になっている。 国鉄松川駅付近。鉄道廃止から3年経過しているが、線路跡を判別することが出来る。(昭和50年度国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成) 松川駅構内。川俣線の列車は白い柵がある駅舎側のホームから発着していた。 岩代川俣駅跡に建てられた記念碑 岩代川俣駅跡に建てられた元川俣駅資料館
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 01:33 UTC 版)
北紋バスにより代替バスが運転されているが、平日に滝ノ上まで行くバスの本数は渚滑線時代より増えた。また上渚滑までの区間便も別系統で設定されている。上川方面へは高速バスが紋別から滝ノ上経由で連絡している。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 17:00 UTC 版)
前述の通り、廃止後は伊豆箱根バスの路線バス「旧道経由 三島駅-沼津駅」が広小路 - 沼津駅前の軌道線跡に運行されている。ただし麻糸前 - 平町では、狩野川沿いの旧道ではなく県道380号(旧国道1号線)を通っている。なお、大部分の区間で東海バスオレンジシャトルの路線が並行している。 旧長沢車庫跡は廃線後に西側に敷地を拡大して代替バスの車庫として使用されたが、2016年(平成28年)現在はパチンコ店が立地している。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 02:18 UTC 版)
当電停のあった位置は、新幹線ホームのすぐ西側であり、それらの構造物や入口、通路や道路にかき消されて何も残っていない。 なお、大宮駅西口DOMショッピングセンターとJACK大宮の間を抜けて大きくカーブし、新幹線ホーム横に至る道路が線路跡である。桜木町交差点方面から進んできた車両が、JR大宮駅に並行するかたちで存在していた当駅に到着するルートを窺い知ることができる。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:36 UTC 版)
線路跡は現在国道289号に転用されており、かつての三森駅と同一地点にJRバス白棚線のバス停が設置されている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:42 UTC 版)
廃線跡をバス専用道としているため、鉄道時代の痕跡はほとんどないが、2008年現在でも専用道上のバス停留所として機能している。かつての古関駅と同一地点に設置されており、停車場中心も定められた。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:37 UTC 版)
廃線跡をバス専用道としているため、鉄道時代の痕跡はほとんどないが、2008年現在でも専用道上のバス停留所として機能している。かつての梁森駅と同一地点に設置されており、停車場中心も定められた。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 19:13 UTC 版)
専用軌道の跡地である道路「廃軌道」上に跡が存在する。現在駅の跡地は山交タウンコーチのタクシー乗り場となり、斜め向かいの車庫の跡地は1995年頃まで山梨交通バスの貢川営業所として使用されていた。その後営業所が敷島営業所に統合されたのに伴って敷地は商業地に転用され、当初はダイエー、現在では電器量販店のコジマとなっている。跡地は現在も山梨交通の所有地で、建物の定礎のそばに同社の名前の入ったプレートが掲出されている。現在周囲は住宅地と化している。 2020年12月には、駅跡地の山梨交通所有地に電車線跡記念碑が建立され、ミニ公園として一般に公開された。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:38 UTC 版)
前述の通り、廃線跡をバス専用道とし、その後国道289号の道路改良に伴い一般道路に転用されているため、鉄道時代の痕跡はほとんどない。ただし、JRバス関東白棚線の磐城金山停留所は、自動車駅としての磐城金山駅と同一地点に設置されており、バス停留所には鉄道駅と同じ様式の駅名標が掲出されている。 現在の磐城金山停留所(2007年8月) 磐城金山停留所に掲出されている駅名標
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:34 UTC 版)
かつての金沢内駅と同一地点に設置されており、停車場中心も定められたが、その後国道289号の道路改良に伴い一般道路に転用されているため、鉄道時代の痕跡はほとんどない。ただし、JRバス関東白棚線の金沢内停留所はかつての金沢内駅と同一地点に設置されている。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:40 UTC 版)
廃線跡をバス専用道としているため、鉄道時代の痕跡はほとんどないが、2008年現在でも専用道上のバス停留所として機能している。かつての番沢駅と同一地点に設置されており、停車場中心も定められた。
※この「廃線後の状況」の解説は、「番沢駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:23 UTC 版)
線路跡地のうち、西那須野駅 - 大田原駅付近手前までの全長約4.2kmの区画は自転車歩行者専用道路として大田原市と西那須野町によって1985年に都市計画道路に決定し同年以降段階的に整備され1990年に全線開通、「ぽっぽ通り」という名称がつけられている。ぽっぽ通りは、路面はアスファルト舗装で一部にブロックや切石を敷き詰め、歩行者と自転車を分ける中央分離帯には樹木が植えられ、随所にホームや蒸気機関車などをモチーフとしたモニュメントや案内板が点在し、往時にはここが鉄道路線であったことを伝えている。その他の区画にも、橋台の一部が残っている鉄橋の跡地や、使われなくなったトンネルといった遺構を確認することができる場所も点在する。 東野鉄道の西那須野駅舎跡は、現在ステーションビルとなっている場所である。乃木神社前駅跡は、廃線後ホームなどのモニュメントが造られた位置ではなく、乃木神社参道を挟んだはす向かいの参道西側(西那須野駅側)にあった。 ぽっぽ通り(線路跡地) JR西那須野駅東口(西那須野駅舎跡地) ホームを模したモニュメント(大高前駅跡地) 蒸気機関車のモニュメント(乃木神社前駅跡地)
※この「廃線後の状況」の解説は、「東野鉄道」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 01:04 UTC 版)
廃線後はその路盤の多くが道路に転用され,六反田・大串電停付近以外はほとんどが市道となっている。また,浜田電停南の新川にかかる橋梁(歩行者用)は当時のガーターを転用している。他にも,塩ケ崎電停付近には用水路にかかる小規模なガーター橋が残る。電停に関する遺構は,曙町電停に若干の痕跡と大洗電停にホームの一部残る以外その殆どが湮滅している。全区間に渡って境界杭が多く残る。
※この「廃線後の状況」の解説は、「茨城交通水浜線」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 18:33 UTC 版)
線路・施設の撤去は2006年11月1日から本格的に開始された。現在ではほとんどの区間でレール・枕木が撤去されており、橋梁、路盤の撤去も頻繁に行われ、能登線の痕跡は消えつつある。 なお、地元自治体ならびに沿線住民の希望により、以下の区間は線路が残されている。 穴水駅から山王川橋梁付近 - 車両の入換などに使用されている。 間島橋梁付近から薬師川橋梁付近(波並 - 藤波 - 宇出津間) - 1km以上にわたり線路が残されている。 恋路駅前後 - 再敷設されたもの。地元の宗玄酒造により、「のトロ」という名称の軌道自転車に有料で乗ることができる。 珠洲駅跡地 - 道の駅すずなり内の、のと鉄道記念広場としてホームや線路の一部が保存されている。 珠洲市正院町小路地区から同町川尻地区間(正院 - 蛸島間) - この区間は、動態保存車両であったNT100形気動車の走行に使用された。 蛸島駅構内
※この「廃線後の状況」の解説は、「のと鉄道能登線」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 16:14 UTC 版)
線路跡は大半が舗装道となっている。また途中の村国駅跡地には現在個人私設の鉄道博物館があり、かつて鯖浦線で使用されていて、後に南越線と福武線で使用されていた160形電車の1両(モハ161-1)が保存されている。
※この「廃線後の状況」の解説は、「福井鉄道南越線」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 16:14 UTC 版)
路線跡地は、水落駅付近から織田にかけてサイクリングロードとして整備されており、一部の駅跡には当時のプラットホームが残されている。また、現在はかつての路線に並行して、鯖浦線の路線名で福井鉄道のバスが運行されている。ただし、バス路線における鯖浦線の鯖江側の起点はJR北鯖江駅となっている。織田駅跡には今でも「駅前通り」の名があるが駅前ロータリーは切り通しになった。
※この「廃線後の状況」の解説は、「福井鉄道鯖浦線」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 06:04 UTC 版)
浜松都心部では再開発のため、起点の遠鉄浜松駅付近の面影は失われているが、クリエート浜松北側に線路跡をなぞった歩道が整備されている。そこから旧元城駅間は軌道上に住居が建設されている。 旧元城駅及び車庫・工場の跡に建ったホテルコンコルド浜松(駐車場に駅跡の碑が建つ)を過ぎ、三方原台地へと差し掛かる切通しとトンネルは、サイクリングロードとして整備されている。トンネルはレンガ造りだが、往時のままではなく装飾がなされているほか、奥山線時代の写真なども載せられている。サイクリングロードは銭取駅跡付近まで続く。近年整備され、駅だった場所に駅を示すタイルが埋め込まれている。 三方原上はまっすぐ伸びていたためか、自動車道に転用されあまり目立った遺構は見受けられない。駅跡の碑がそれを示しているくらいである。 谷駅前後付近(中部電力(株)遠江変電所南側)には、台形の盛土が比較的綺麗に残っている。その一部には小さな橋梁の遺構も残されている。谷駅から祝田駅間は一部公園になって管理されている部分があるが、ほとんどは管理されておらず、荒れている。冬場であれば軌道跡を散策することも可能。 最大の遺構といえたのが、金指駅西方の国鉄との立体交差跡である。その前後の築堤は削られたが、古びたコンクリート橋だけは2021年に撤去されるまで長く残っていた。ここから西へしばらくは国鉄二俣線の北側を並んで走っていたため、現在も天竜浜名湖鉄道の道床脇には細長い空き地が続く。 岡地駅跡はホーム跡が残っているが、上に民家が立てられている。当時のそれを示す看板が設置されている箇所もある。橋梁についても数箇所が残っており、2箇所では道路に転用されている。また「工」の標識が残っている箇所もある。 気賀口駅北側500m付近で川を横断していたのだが、コンクリート製の橋桁が住宅のすぐ裏に残っている。川を越えてから奥山駅までは生活道路として軌道跡が残っている。 四村駅跡では駅舎とホームが残っていたが、2009年2月に老朽化により解体された。すぐ隣には四村運送とかかれた当時宅配をしていた建物が残っているが、老朽化が進んでいるため解体されるのも時間の問題だと思われる。 奥山駅跡東側の川にはレンガ造りの橋梁の遺構が撤去されずに残されている。
※この「廃線後の状況」の解説は、「遠州鉄道奥山線」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 07:54 UTC 版)
草軽交通・西武高原バスの「旧軽井沢」バス停から北に伸びる「三笠通り」(草軽交通の「一本松」バス停から「三笠パーク入口」までの区間)は、上下線で不自然に段差が有るが、これは草軽電気鉄道の線路が通っていた名残である。また廃線跡には、鉄橋の橋脚、北軽井沢駅舎などが遺構として残っている。 旧軽井沢(軽井沢銀座入口)付近から続く松並木。右側が草軽の線路跡(三笠方面から軽井沢駅方向を望む) 現在も残る草軽電鉄の吾妻川橋梁の橋台。台風による橋の流失が、鉄道線廃止に拍車をかけた 小さな公園にある、草津温泉駅跡の記念碑。記念碑の下には当時のレールが残っている 北軽井沢駅舎は2006年9月15日に国の登録有形文化財に登録するよう答申され、2006年11月29日に「旧草軽電鉄北軽井沢駅駅舎」として文化庁より登録有形文化財として登録された(認定番号第10-0210号)。 北軽井沢駅舎建設当時から変わらない姿 北軽井沢駅舎が登録有形文化財として登録されたことを示すプレート また、多くの区間は道路などとなっているが、廃線後長い時間を経て、自然に還ってしまった区間も少なくない。
※この「廃線後の状況」の解説は、「草軽電気鉄道」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/12/27 06:05 UTC 版)
廃線後、駅舎は解体されて無くなり、駅名標は参道を挟んだ民家の前に残されていたが、数年後に無くなった。ホームは、盛り土部分が徐々に削られて無くなり、数年後には大谷石の部分だけが残っていた。その後、路線跡がぽっぽ通りとして整備され、跡形も無くなった。 現在、踏切跡地近くの乃木神社参道東側には乃木緑地と呼ばれる小さな公園があり、ぽっぽ通りに面した場所にはホームを模したモニュメントが置かれている。しかし、これは往時には田園であった場所に作り直されたものであり、駅舎もなく往時の姿とも異なっている。文献によっては、モニュメントの場所が駅の跡地であると受け取れるような記載をされる場合もあるが、正確には往時の乃木神社駅ホームは、現在ホームのモニュメントが設置されている乃木緑地とは参道を挟んだはす向かい側にあたる参道西側にあり、位置は異なっている。 実際の駅跡地付近には汽車を模したモニュメントが設置されている。
※この「廃線後の状況」の解説は、「乃木神社前駅」の解説の一部です。
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廃線後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 18:17 UTC 版)
岩泉線の廃止後、茂市駅 - 岩手和井内駅間の鉄道施設・用地は宮古市に、浅内駅 - 岩泉駅間は岩泉町に、押角駅 - 岩手大川駅間に所在していた押角トンネルは岩手県に無償譲渡された。岩泉駅の駅舎は岩泉商工会とJRバス東北が引き続き利用。中里駅 - 岩手和井内駅間は2016年6月より観光施設としてレールバイクの運転を開始。押角トンネルは道路用に拡幅され、2020年12月13日に国道340号のトンネルとして開通した。
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