モハ30形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 08:02 UTC 版)
※この「モハ30形」の解説は、「野上電気鉄道」の解説の一部です。
「モハ30形」を含む「野上電気鉄道」の記事については、「野上電気鉄道」の概要を参照ください。
モハ30形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 19:25 UTC 版)
「豊川鉄道・鳳来寺鉄道・田口鉄道の電車」の記事における「モハ30形」の解説
モハ30形は、1929年に増備された半鋼製制御電動車で、豊川鉄道向けに3両 (31 - 33) 、田口鉄道向けに2両(電3形(101・102))が製造された。製造は、日本車輛製造が行なっているが、車体は先行した川造形のモハ20形とおおむね同形で、側扉の幅がモハ20形の1003mmから1100mmに拡大された程度で、走行機器も同様である。 モハ20形と同様、一見非貫通のように見えるが、実は貫通扉がある。 田口鉄道の電3形(101・102)は、1938年1月に豊川鉄道所属車と同形式の通番とされ、モハ30形(36・37)に改称された。 買収以前は三信のデ300形とともに吉田 - 天竜峡間の直通列車に使用され、1943年の国有化後は豊川鉄道の3両は鉄道省に編入されたが、田口鉄道の2両は買収対象にならなかったものの、鉄道省に供出されて中部天竜機関支区に配置され、旧豊川のモハ30形と共通に使用された。この間、更新修繕により、前位側の運転台両側に乗務員扉が新設されたが、後位運転台も存置されていた。オリジナルの台車は日車D-18であったが、32のみ国鉄形のDT10に交換されていた。 1952年2月、国鉄車の31 - 33は宇部電車区に転出。1953年2月から3月にかけて府中町電車区に転属し福塩線用となった。1953年6月に施行された車両形式称号規程改正によりモハ1610形 (1610 - 1612) と改称されたが、1956年(昭和31年)3月に3両とも廃車され、田口鉄道、大井川鉄道、三岐鉄道に1両ずつ譲渡された。そのうちの1両1610は、田口鉄道に譲渡され、機器の国鉄標準型への変更や側窓のアルミサッシュ化、客用扉の鋼板プレス製化などの車体更新を行なわれ、古巣に戻って僚車とともに豊橋乗り入れ用に使用されていたのは特筆される。同車の車番は田口鉄道モハ38となり、1956年豊橋鉄道モハ38、1962年(昭和37年)雨樋を設置、1964年(昭和39年)7月モ38へ改称、1965年(昭和40年)連結器を密着連結器から自動連結器に交換、1966年海老車庫にて600v化、ヘッドライトをシールドビーム2灯化、渥美線に転属。1968年モ1713へ改番、1971年方向転換の上、片運転台化し、貫通扉も埋め、溶接密閉非貫通化。後に台車を日車D-18から川崎K3に交換、1986年頃廃車された。 1952年5月、田口鉄道の日本国有鉄道への運行業務委託終了と同時に36・37は田口鉄道へ返還された。この際、戦前から継続していた田口鉄道への直通運転は一時中断したが、国鉄標準型機器への交換を行なって再開された。1956年豊橋鉄道田口線となる。車両の検査業務を委託していた豊川分工場が廃止される1963年3月24日まで社形と国電の併結が見られた。1962年(昭和37年)雨樋を設置し、客用扉を鋼板プレス製に交換、1964年(昭和39年)7月「モハ」→「モ」へ改称、1965年(昭和40年)連結器を密着連結器から自動連結器に交換、1967年(昭和42年)ヘッドライトをシールドビーム2灯化し、1968年田口線廃止・渥美線へ転属・600v化。同年モ1711・1712へ改番、貫通扉も溶接密閉非貫通化し、側面の下降窓もアルミサッシュ上昇窓化、その後1988年8月の廃車に際し、1711のみ番号を36に戻し、田口線時代の茶色塗装を復刻、ヘッドライトも1灯に戻し、さよなら運転を行った。
※この「モハ30形」の解説は、「豊川鉄道・鳳来寺鉄道・田口鉄道の電車」の解説の一部です。
「モハ30形」を含む「豊川鉄道・鳳来寺鉄道・田口鉄道の電車」の記事については、「豊川鉄道・鳳来寺鉄道・田口鉄道の電車」の概要を参照ください。
- モハ30形のページへのリンク