豊川鉄道
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豊川鉄道株式会社(とよかわてつどう)は、現在の東海旅客鉄道(JR東海)飯田線の前身となる鉄道路線を運営していた鉄道会社。愛知県豊橋市に本社があり、末期は名古屋鉄道の傘下にあった。
- ^ a b c d e f g h i 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 『株式会社年鑑. 昭和18年版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ この中には旧吉田藩士が含まれており、士族授産、生活扶助の一方法と考えていた。
- ^ 松谷は一時は30万円の利益をだしたが暴落により60万円の損失をだしたという。『財界名士失敗談』
- ^ 小川が東京海上関係者に取材したが社内には伝承すらなく経緯は不詳であるが、その後も豊川鉄道を支配していたのは買占め事件への金融的関与でしか説明できないとしている。
- ^ 浪速銀行が鉄道全部に抵当の登記中であった。
- ^ その手形に裏書きした豊橋銀行も差押を受けている。資本金30万円、預金20万円、豊川鉄道への貸付が30万円。4月20日に取付け騒動が起こり4月22日から30日間臨時休業してしまう。
- ^ 『日本証券市場成立史』142頁
- ^ 露清銀行は豊川鉄道社長が振り出した20万円の手形が弁済されず裏書きした百三十銀行に弁済を求めたところ、行員が独断でしたものと拒否。訴訟の末敗訴した。百三十銀行は露清銀行に20万円償還し、豊川鉄道から20万円の手形を交付され、不良債権をつかまされる形となった。
- ^ 明治34年5月30日国民新聞『新聞集成明治編年史第十一巻』(国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 内実は渋沢栄一らの仲裁により負債100万円を8%の優先株に引当てて債権者に押しつけたものであった。
- ^ 1903年11月専務、1910年12月辞任。
- ^ 明治37年百三十銀行の破綻により実業界から引退した。
- ^ 西川は専務取締役支配人から副支配人に降格になっていたが支配人に復していた。
- ^ 明治2年三重県生まれ、新聞記者を経て豊川鉄道社員になる。1901年に北越鉄道に移り会計課長になり国有化の際に活躍した。
- ^ 豊川鉄道が1899年12月に大海より北設楽郡川合村に至る約11マイルの路線敷設を申請したときと同経路である。このときは1900年6月に仮免状が下付されたが1904年4月に返納していた。
- ^ 中川は「別会社の形態をとったのは(中略)建設費が高くなり、豊川鉄道として工事を行うと支出が著しく増大し損益計算上で不利との判断が働いたからであろう」としている。中川浩一「飯田線形成への途」『鉄道ピクトリアル』No.416 1983年5月号、13頁
- ^ 鳳来寺鉄道の現業員も豊川鉄道からの派遣であった。
- ^ 1931年から1933年にかけて企画された催事は、盆踊り(1931年9月6日)、芝居(同年9月26日)、花火大会(1932年7月23日)、狼煙大会(同年7月25日)、宝探し(同年8月7日)、花祭り(1933年4月12日)、弓道大会、市内小学校対抗リレー大会、学童写生大会、拳闘大会、凧揚げ大会など。
- ^ その後の倉田は鉱山会社を設立し北設楽郡地内の津具金山を手がけたという 『建国悠遠 : 皇紀二千六百年記念名士談話集』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『名古屋鉄道社史』311頁
- ^ 140-145頁
- ^ 経歴については『日本実業家名鑑。 上』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「私設鉄道敷設鉄道免許状及仮免許状下付」『官報』1896年2月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 免許状の下付日を明治28年9月27日とする史料があるが「鉄道院文書」によると(本)免許の請願日である。史料No.387及びNo.389『新編豊川市史 第7巻 資料編 近代』2003年
- ^ 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年7月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 『鉄道局年報. 明治30年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年7月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「私設鉄道敷設鉄道免許状又ハ仮免状下付」『官報』1897年9月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「私設鉄道株式会社仮免許状返納」『官報』1901年1月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「運輸開業免許状下付」『官報』1898年4月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「運輸開業免許状下付」『官報』1900年9月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道指定」『官報』1911年2月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1914年7月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 指定ノ期限内ニ工事ニ着手セサルタメ「軽便鉄道免許失効」『官報』1918年7月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 1934年時点で4路線、使用車両(常用2予備1 定員16)『全国乗合自動車総覧』1934
- ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1939年9月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1942年5月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道省告示第204号」『官報』1943年7月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 鉄道省(編)『鉄道停車場一覧 昭和12年10月1日現在』、川口印刷所出版部、1937年、352頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『日本鉄道旅行地図帳 7号 東海』新潮社、2008年、36-37頁。ISBN 978-4-10-790025-8。
- ^ 『電気事業要覧. 第19回 昭和3年3月』(国立国会図書館デジタルコレクション)
豊川鉄道
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1897年(明治30年)7月15日:豊川鉄道 豊橋駅 - 豊川駅間(5M30C≒8.65 km)が開業。豊橋駅(国有鉄道と共有)・牛久保駅・豊川駅が開業。 7月22日:豊川駅 - 一ノ宮駅間(2M3C≒3.28 km)が延伸開業。一ノ宮駅(現在の三河一宮駅)が開業。 1898年(明治31年)3月13日:小坂井駅が開業。 4月25日:一ノ宮駅 - 新城駅間(6M3C≒9.72 km)が延伸開業。東上駅、新城駅が開業。 1899年(明治32年)10月19日:長山駅が開業。 12月11日:豊橋駅から豊川鉄道の駅が吉田駅として分離。 1900年(明治33年)9月23日:新城駅 - 大海駅間(3M74C≒6.32 km)が延伸開業して豊橋駅 - 大海駅間全通。大海駅が開業。 11月7日:貨物支線 吉田駅 - 船町駅間(1M6C≒1.73 km)が開業。(貨)船町駅(初代)が開業。 12月15日:川路駅(現在の三河東郷駅)が開業。 1902年(明治35年)4月1日:貨物支線(吉田駅 - 船町駅間)と本線の分岐点に船町分岐点を設置。 11月12日:MC表示からマイル表示に簡略化(吉田駅 - 大海駅間 17M30C→17.4M、吉田駅 - 船町駅間 1M6C→1.1M)。 1903年(明治36年)3月15日:大海駅を長篠駅に改称。 1914年(大正3年)1月1日:東新町駅が開業。 1916年(大正5年)1月1日:一ノ宮駅を三河一宮駅に改称。 1918年(大正7年)1月1日:野田城駅が開業。 1925年(大正14年)7月:吉田駅 - 長篠駅間が電化。 12月23日:下地停留場が開業。 1926年(大正15年)4月1日:愛知電気鉄道が豊川鉄道の小坂井駅 - 豊川駅間に乗り入れ開始。 4月2日:小坂井駅 - 豊川駅間が複線化。 5月1日:茶臼山駅が開業。 11月10日:江島渡停留場(現在の江島駅)が開業。 1927年(昭和2年)6月1日:新船町停留場(現在の船町駅)開業。下地駅 - 小坂井駅間に平井信号所開設。愛知電気鉄道が豊川鉄道の吉田駅 - 平井信号所間の下り線に乗り入れ開始。 1930年(昭和5年)4月1日:マイル表示からメートル表示に変更(吉田駅 - 長篠駅間 17.4M→28.0 km、吉田駅 - 船町駅間 1.1M→1.7 km)。 1942年(昭和17年)5月12日:西豊川支線 豊川駅 - 西豊川駅間 (2.4 km) 開業。西豊川駅が開業。
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豊川鉄道
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「国鉄1100形蒸気機関車」の記事における「豊川鉄道」の解説
1897年(明治30年)、豊川鉄道は建設及び開業用として3両を導入した。製造番号は501 - 503で、機1形(1 - 3)と付番した。この機関車は、ボイラー容量がやや小さく、水槽容量が大きかった。1943年(昭和18年)の戦時買収によって、1は1280形(1280)となったが、買収以前に2は播丹鉄道に譲渡され同社の1(3代目)に、3は名古屋鉄道に譲渡され同社の13となっている。 また、1903年(明治36年)にも1両(製造番号645)を購入して、4としている。これがB3・B4系蒸気機関車の最後の製造となった。4は2(2代目)に改称されて、1と同じく戦時買収まで在籍し、国有化後は1281となった。
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