愛知電気鉄道の豊橋進出問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 15:28 UTC 版)
「豊川鉄道」の記事における「愛知電気鉄道の豊橋進出問題」の解説
愛知電気鉄道は1926年(大正15年)4月1日に東岡崎 - 小坂井間を開通させ神宮前 - 小坂井 - 豊川間の直通運転を開始し、さらに1927年(昭和2年)6月1日に伊奈 - 吉田(豊橋)間を開通させて豊橋への乗り入れを実現したのであるが、この路線の選定に同社は苦慮した。 それは自前で線路を敷設するには豊川に架橋しなければならず多額の建設費と長い工期が必要になるため、豊川鉄道に提携する方向で交渉しようとしたのだが、豊川鉄道にとって愛知電気鉄道の豊橋乗り入れは打撃をあたえかねず受け入れがたいものであった。しかし粘り強い交渉の結果豊川鉄道の倉田専務と愛知電気鉄道の藍川清成社長との会談において急転直下解決したのである。この経緯について『名古屋鉄道百年史』は以下のように記述している。 倉田専務はなかなか交渉の場に立とうとしなかったため、愛知電気鉄道は御油から豊川に直進するルートをうちだした。これは陽動作戦であって倉田も理解していたが、しかし豊橋市当局や財界では豊橋を経由しないルートの案に動揺し、危機感をつのらせ、関係者が再三協議した結果、遂に豊川鉄道は妥協し小坂井 - 豊川間の乗り入れを認めるとともに伊奈 - 吉田(豊橋)間に愛知電鉄が線路を増設して豊川鉄道と共用することになった。
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