愛知電気鉄道の発足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:14 UTC 版)
詳細は「愛知電気鉄道」を参照 1909年(明治42年)には、名古屋以西の路線(名古屋本線の東枇杷島駅以西・犬山線など)を建設していた名古屋電気鉄道に対し、以東の路線(名古屋本線の神宮前駅以東・常滑線など)を建設することになる愛知電気鉄道が設立された。 愛知電気鉄道(愛電)は、1910年(明治43年)に知多半島西岸の振興と、それまで舟運に頼っていた常滑焼など特産品の効率的な運送を図るために設立された鉄道会社で、1913年(大正2年)に現在の常滑線を全通させ、続いて旧東海道沿いに名古屋市と三河地方との連絡を意図した路線(豊橋線、現在の名古屋本線神宮前駅以東に相当)の建設を開始した。一方、官設鉄道(のちの国鉄・現JR)東海道本線以外に、私鉄による第2幹線を建設しようと東海道電気鉄道が設立され、愛知郡御器所村(現・名古屋市昭和区)から豊橋市にいたるまでの路線免許を得て、さらに豊橋市から浜名湖北岸をまわり浜松市にいたる計画を持っていた遠三電気鉄道にも出資していたが、その最大の資本提供者で過去に日本電気鉄道(東京 - 大阪間電気鉄道敷設計画)の計画も推し進めていた安田善次郎が1921年(大正10年)に暗殺されたため、計画は宙に浮くことになった。 そのような状況下、東海道電気鉄道の創設者であり、かつて愛知電気鉄道の2代目社長を務めた福澤桃介(福澤諭吉の娘婿)は、愛知電気鉄道に対して救済合併を申し入れ、愛知電気鉄道側もこれを承諾し、東海道電気鉄道は愛電に吸収合併された。その後、愛知電気鉄道は東海道電気鉄道計画を継承し、当時有松裏駅(現・有松駅)まで開通していた愛電有松線を延伸する形で、豊橋方面への路線の建設に着工した。東海道電気鉄道は当初から画期的な高速鉄道を目指しており、豊橋線はそれに見合う高規格で建設され、1927年(昭和2年)6月に吉田(現・豊橋)までの全線が開通した。この豊橋線は当時の愛知電気鉄道の資本金総額を上回る莫大な建設費用を投じて建設されたことから、この設備投資による負債が経営を圧迫し、さらに当時の日本はアメリカに端を発した世界恐慌による強烈な不況風が全国に吹き荒れていたこともあって、愛知電気鉄道は深刻な経営難に陥った。その後、景気回復と3代目社長である藍川清成以下経営陣の尽力によって、愛知電気鉄道は経営危機を脱している。
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