愛知貰い子殺人事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 01:49 UTC 版)
愛知貰い子殺人事件 | |
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日付 | 1913年5月24日 |
攻撃側人数 | 3人 |
犯人 | 坂倉しげ 沖つた 猪飼なを |
刑事訴訟 | 加害者3人とも死刑(確定 / 執行済み) |
愛知貰い子殺人事件(あいちもらいごさつじんじけん)は、1913年(大正2年)5月24日に発覚した、愛知県愛知郡愛知町(現在の名古屋市中川区及び中村区)日置若狭に在住の坂倉しげ(45歳)を主犯とする大量殺人事件である。
発覚まで
主犯のしげは、伊勢藤堂藩士の娘として生まれた。結婚して坂倉家の女となった[1]。1898年より私生児を40 - 50円の養育費と共に引取り、その私生児を次々と殺害していった[1]。1913年(大正2年)5月には既に200人ほど殺害していた[1]。日露戦争時には夫が出征、死亡するなどして、未亡人となった女性の子供を次々と引き取り、殺害した[1]。犯行の足がつかないように2、3人殺すごとに引越しを繰り返していた[1]。共犯者の沖つた(45歳、名古屋市中区在住)[2]と猪飼なを(62歳、愛知郡天白村平針在住)[2]は浮気相手を連れ込むための隠れ家で貰い子を殺害した[3]。子供を40円で預けたある芸妓は、子供の顔を見ようと何度もしげのもとを訪れたが会えず[1]。不審に思い警察に相談[1]。しげは警察に逮捕された[1]。逮捕の10日後、新聞によって一般に公表された[1]。
犯人の処分
1914年(大正3年)6月29日、坂倉しげ・沖つた・猪飼なをの3人に死刑が言い渡された。同年10月21日に死刑が確定。1915年(大正4年)9月9日に死刑が執行された[2]。
類似案件の摘発
佐々木すし(55歳)ら10名が検挙され、熱田界隈で32名が貰い子殺しの犠牲となったことが同年6月27日に判明[4]。このうち鈴木のぶ(62歳)ら4名が貰い子170名を斡旋していた[4]。6月30日滋賀県愛知郡豊国村の中西与惣松(68歳)ら3名が共謀し、9年前から貰い子殺人を繰り返しており、警察の取り調べを受けていたことが発覚[5]。
脚注
関連項目
- 貰い子殺人(乳児大量殺人事件)
- ジェニーン・ジョーンズ - テキサス州で、自身が担当する乳幼児を多数殺害していたとされる准看護師
- 寿産院事件
愛知貰い子殺人事件 (1913年発覚)
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「貰い子殺人」の記事における「愛知貰い子殺人事件 (1913年発覚)」の解説
愛知県愛知郡在住の40代女性は、1898年より私生児を40 - 50円の養育費と共に引取ると次々と殺害。犯行の足がつかないように2、3人殺すごとに引越しを繰り返し、日露戦争時には夫が出征・死亡するなどして未亡人となった女性の子供が犠牲となった。浮気相手を連れ込むための隠れ家で貰い子を殺害した2人の女性も共犯となり、1913年5月までには既に200人ほど殺害していたとされている。子供を40円で預けたある芸妓が子供の顔を見ようと何度も女性の許を訪れたが会うことが出来ず、不審を抱き警察に相談して事件が発覚。3人は1914年10月21日に死刑が言い渡され、1915年9月9日に死刑が執行された。
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