中興の祖・倉田藤四郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 15:28 UTC 版)
1910年(明治43年)上期の決算時に不正が発覚した。経理部長が相場に手を出し32,000円を使い込みしたもので、親戚である支配人の西川に自白した後に豊川に投身自殺した。このため西川は私財を処分して損害を補償した後支配人を辞任した。末延は以前北越鉄道取締役であったが、そのときの部下の倉田藤四郎を1910年10月に支配人に迎えた。豊川鉄道の経営をまかされた倉田は1911年(明治44年)、1913年(大正2年)にそれぞれ20万円の減資を断行し、不良債権の整理を始めた。また荷札の針金一本無駄にしないなど節約を推進した。ホームで鶏の飼育もおこなわれた。ただ従業員の賃金も抑制したため1919年(大正8年)にストライキが発生してしまった。これに対し倉田は年功に応じ株式を分配しこれをおさめた。こうした努力により経営は徐々に上向くようになり株式配当も復活するようになり、大正8年下期には2割4分という高配当を実現させた。 1917年(大正6年)に専務取締役に就任していた倉田はさらに業務拡大をはかり、1920年(大正9年)5月に120万円増資し資本金230万円とした。これは長篠 - 三河川合間の鉄道敷設の計画に対応したもので、1921年(大正10年)5月9日に免許が下付され、同年9月1日に鳳来寺鉄道株式会社が豊川鉄道本社内に設立された。資本金130万円のうち30万円を豊川鉄道が負担し、社長は元大野町長で大野銀行頭取、豊川鉄道監査役の大橋正太郎、常務は倉田(1930年に社長就任)が就任した。 1923年(大正12年)2月、鳳来寺鉄道は開通し、吉田(旧・豊橋) - 三河川合間の直通運転を開始した。鳳来寺山や鳳来峡の観光地に期待し、鳳来寺鉄道湯谷駅にホテルを建設し温泉設備を併設し、電車の往復割引や温泉の無料開放を行うなど集客に力をいれた。これにより団体旅行の申込が定員を超えるなど、豊川鉄道の目論みはあたった。この豊川・鳳来寺両鉄道は1925年(大正14年)7月全線電化し、大幅に旅客数を増加させた。 続いて1927年(昭和2年)11月に田口鉄道が設立され、1928年(昭和3年)12月に三信鉄道が設立された。田口鉄道は資本金300万円のうち豊川鉄道75万円、鳳来寺鉄道20万円を負担し、社長には倉田が就任した。なお筆頭株主は宮内省で125万円を負担していた。三信鉄道は路線の長さと厳しい地形により巨額の建設資金を必要とし資本金は1000万円となった。出資者は豊川鉄道・鳳来寺鉄道のほか長野県の鉄道事業者伊那電気鉄道、電力会社の天竜川電力・東邦電力などであり、うち豊川鉄道は150万円、鳳来寺鉄道は50万円を出資し、取締役社長に末延、常務取締役に倉田が就任した。ただ倉田は三信鉄道の開業をみずに豊川鉄道を去ることになる。 こうした拡大策を続けてきた豊川鉄道であるが1930年(昭和5年)の下期に大幅な減収をみることになる。繭糸木材価格は暴落し、不況の影響により旅客は大幅に減少した。これに対し落込んだ旅客の回復に長山駅前に1931年(昭和6年)7月に長山遊園地を開設する。ここで様々な催事を企画した。ほかにもお座敷列車・特別急行などの臨時列車を運行し、往復割引切符を発売して集客に努めた。ただ旅客数の減少に歯止めがみられたものの、収益にもどることはなかった。 そんなとき1934年(昭和9年)4月三信鉄道の株式払込金にあてるための社債120万円の発行に関して独断専行として倉田は東京の大株主により問題視された。1932年(昭和7年)に末延が死去し、さらに後任の会長になった馬越も1933年(昭和8年)に死去して後ろ盾を失っていた倉田はその責任を取り辞任することになった。1935年(昭和10年)4月の株主総会で役員の構成もかわった。
※この「中興の祖・倉田藤四郎」の解説は、「豊川鉄道」の解説の一部です。
「中興の祖・倉田藤四郎」を含む「豊川鉄道」の記事については、「豊川鉄道」の概要を参照ください。
- 中興の祖・倉田藤四郎のページへのリンク