社長就任
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疑獄事件、会社内紛事件である三井不動産事件(別名:三信ビル事件)の混乱の中、1955年(昭和30年)11月社長に就任した。就任するとすぐ、すでに90%の余りの清算を終えていた三井本社を清算結了促進のため合併した。これで三井不動産は、名実ともに三井合名の名跡を継ぐことになった。 浚渫埋め立て事業に進出 また新しく、浚渫埋め立て事業に進出することを決断した。江戸はかねて、東京通産局長の中村辰五郎らから、資源のない日本経済発展上、鉄鉱石、石油その他大量の原材料受け入れと、製品積み出しのため、大型港湾の造成と、海岸工場用地造成、特に京葉地帯の重要性の進言を受け、ひそかに検討していた。翌年夏、公共事業特別調査委員を委嘱され、全国の公共事業を調査することになり、柴田等千葉県知事の案内で、県下の公共事業を視察した時、湾岸一帯の説明を受け、いよいよ京葉地帯の埋め立てに取り組む決意を固め、準備態勢が整っている時、柴田知事と友納武人副知事(のち知事)から、五井市原地区120万坪の浚渫埋め立てにつき引き受け依願があり、進んで応諾することにした。当時千葉県は赤字貧弱県で、工事実施の余裕がないため、工事会社が漁業補償を支払い、工事を立て替え施工し、進出希望企業に分譲して、工事費を回収する、いわゆる千葉方式によった。1957年(昭和32年)10月、千葉県との間に埋め立てに関する基本協定を締結すると同時に、埋め立て施工会社として第一港湾会社(のちの三井港湾会社)を設立、社内機構としては坪井東(のち社長)を担当課長とした。浚渫船も新たに建造して、翌58年春から着工し、61年7月に完成を迎えた。五井市原地区着工当初は、まだ景気後退の余波があったが、やがて神武景気に乗って進出企業も相次ぎ、各社とも直ちに工場建設にとりかかり、京葉工業地帯発展の原動力となった。 1963年(昭和38年)4月、知事となった友納が来社し、千葉港中央地区(出洲地区)につき、浚渫埋め立てによる新市街地開発に協力申し入れがあった。坪数182万坪、費用概算300億円、県一、三井二の割による共同事業とするものだったが、一つ至難の条件があった。それは数年間難航した漁業補償が急転解決したので、逆転を押さえるため、その補償費50億円を三井側で早急に工面、供出することであった。ところが当時の金融情勢と三井不動産の実力では、それは到底不可能と考えられた。そこで江戸は、かねて面識のあった日本不動産銀行(のち日本債券信用銀行)の勝田龍夫常務(のち頭取)のところに駆けつけ、星野喜代治会長、湯藤實則頭取と三人一緒の場で懇請。3日後にオーケーの返事を得て、 この大事業に取り組むことになった。また大きな地域開発については、官民協力、民間協力で行うべしという持論だったので、この事業につきテストケースとして試みたいと思い、三菱地所の渡辺武次郎社長と住友不動産の瀬山誠五郎社長に三井不動産持ち分30%を両社均分に負担加入を申し入れして一任を受けた。工事途中では昭和40年不況にぶつかり、三菱、住友を誘った責任もあり、先行きを心配したこともあったが、そのあと長い好景気が続いて、バタバタと売れていった。出洲地区は今日では、旧千葉市を上回る新千葉を形成し、千葉港を擁し、千葉市役所や千葉銀行本店も立地している。 以後、京葉地区以外にも逐次全国主要コンビナート造成に進出、名古屋港第2区、大分鶴崎地区、岡山水島地区、大阪府堺第6区、茨城鹿島地区などが完成していった。 高層ビルを建設に取り組む 埋め立て事業が順調に進んだことから、本来のビル建設にも力を注ぎ、唯一の自社保有である日比谷の土地に1960年(昭和35年)日比谷三井ビルディング(2011年解体)が完成、次いで、日本最初の超高層ビルである霞が関ビルの建設に挑戦し、ちょうど明治100年に当たった68年に完成した。霞が関ビルに引続き、西新宿の淀橋浄水場跡の一角を入手し、74年新宿三井ビルが竣工した。 宅地、住宅、周辺事業への進出 1960年から宅地開発の事業に進出し、全国に大規模な住宅地を開発し、多くのニュータウンを建設していった。さらに昭和40年代には中高層(マンション)、戸建て住宅分譲にも進出。また周辺事業への多角的展開も図り、会長時代にはららぽーと船橋ショッピングセンター、東京ディズニーランド(後述)が開業した。
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