沿革・歴史
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1917年 - 大阪タクシー自動車会社 創業 1937年 - 交通統制に伴い、大阪交通(現在の国際興業)に統合 1951年 - 大タク株式会社設立 営業開始 1978年1月28日 - 十三営業所に強盗。従業員への給料に充てる1000万円が奪われる 1995年 - 日本交通と資本提携する
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沿革・歴史
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「長寿寺 (名古屋市)」の記事における「沿革・歴史」の解説
当寺の草創の年代は不明である。当時は真言宗に属し鷲巣山長祐寺と呼ばれていたが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの際、鷲津砦の兵火で焼失。 江戸時代になり大高領主志水忠継の母である長寿院元操尼の遺命により延宝8年(1680)、当地に愛知県春日井郡三淵村(現在の小牧市の一部)にあった、紫金山慈眼寺(臨済宗黄檗派)を移し、その慈眼寺を開山した越博紹付を迎え、当寺の開山とした。 天和2年(1682)に伽藍を竣工し再興。このとき寺号を長寿寺、宗派を黄檗宗に改めた。その後当寺は一旦中絶したが元禄2年(1689)、臨済宗興聖寺派の大本山である興聖寺から道雲石梯が訪れ中興開山した。後に元禄4年(1691)、臨済宗永源寺派に再び改宗した。 なお、当寺は前述のとおり志水氏の菩提寺として、江戸時代には同氏一族の占有となっていたため、一般の檀家は少数である。また、寺域内には志水氏の9代から14代までの墓がある。 文化から文政年間(1804から1829頃)にかけて、知多四国霊場の87番札所として弘法堂が設けられた。 江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された尾張国の地誌「尾張名所図会」に当寺の記述が境内の俯瞰図とともに収録されている。 明治21年(1888)7月19日、火災により本堂および庫裡を焼失。この際、本尊は偶然寺の付近で東海道本線の工事をしていた作業員らにより運び出され、無事であった。その後明治31年(1898)に新しい本堂、庫裡が再建された。このとき焼失を免れ残っていた山門(鐘楼門)は大正元年(1912)の台風で倒壊し、後に再建された。 昭和20年(1945)3月から5月にかけての名古屋大空襲によって山門その他諸堂や蔵などを焼失。貴重な資料の多くが失われた。 これらは戦後長らく焼失したままの状態であったが、昭和54年(1979)、山門その他諸堂が再建され、現在の長寿寺が竣工した。
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沿革・歴史
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1933年(昭和 8年)長谷川耕南が、墨林会を創設 1961年(昭和36年)より東京都美術館に於いて全国墨林展(現:日本書鏡院展)を開催。 1967年(昭和42年)に、日本書鏡院へ改題。 1970年(昭和45年)より御岳山(東京)に於いて書道の講習会をはじめる。 1977年(昭和52年)長谷川耕生が、日本書鏡院を継承。 1984年(昭和59年)より、銀座鳩居堂に於いて日本書鏡院選抜展を毎年ゴールデンウイークの時期に開催している。 1987年(昭和62年)一般向けに、漢字・かな特別講座を始める。第50回記念日本書鏡院展を開催。 2017年(平成29年)長谷川耕史(現会長)が、日本書鏡院を継承。
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沿革・歴史
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1875年(明治8年)12月:品川警察署開設。 1928年(昭和3年)9月1日:大井警察署開設。本署から分離。 1934年(昭和9年)2月:野呂栄太郎が拷問により死亡。 1969年(昭和44年)11月16日:ML派の学生デモが警察署を襲撃。投石および火炎瓶を投擲したため、警察側も屋上から催涙弾などで対抗。
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沿革・歴史
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「青森県立黒石商業高等学校」の記事における「沿革・歴史」の解説
1974年(昭和49年)4月8日 - 開校。初代校長は、蝦名俊吉(1981年(昭和56年)3月末まで在任)。 定員は、情報処理科・商業デザイン科各45名、事務科・営業科各90名、計270名の4学科。 1974年(昭和49年)10月12日 - 校歌制定 1974年(昭和49年)11月8日 - 校旗樹立 1979年(昭和54年)2月 - 卒業予定者を対象に行われたテーブルマナー講習会の食事が原因で142人が食中毒。 4月1日 - 学科転換により事務科と営業科を統合し、 定員180名の商業科とする。 1982年(昭和57年)4月1日 - 丙午の少子化の影響により、9回生に限り、商業科の定員を45名減らし、135名とする。 1990年(平成2年)2月3日 - 岩手県立宮古商業高等学校と姉妹校締結。 1991年(平成3年)4月1日 - 学科転換により、商業デザイン科をCGを取り入れた情報デザイン科とする。 1993年(平成5年)4月1日 - 定員を商業科176名、情報処理科44名、情報デザイン科44名とする。 1994年(平成6年)4月1日 - 定員を商業科172名、情報処理科43名、情報デザイン科43名とする。 1995年(平成7年)4月1日 - 定員を商業科168名、情報処理科42名、情報デザイン科42名とする。 1996年(平成8年)4月1日 - 定員を商業科160名、情報処理科40名、情報デザイン科40名とする。 2000年(平成12年)4月1日 - 定員を商業科120名、情報処理科40名、情報デザイン科40名とする。 2005年(平成17年)4月1日 - 定員を商業科80名、情報処理科40名、情報デザイン科40名とする。 2020年(令和2年) - 各学科募集停止。 2022年(令和4年)3月 - 情報デザイン科を青森県立黒石高等学校に統合、商業科と情報処理科を青森県立弘前実業高等学校に継承、閉校。
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沿革・歴史
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「小笠原村立小笠原小学校」の記事における「沿革・歴史」の解説
1968年(昭和43年)6月26日 - 小笠原諸島の本土復帰に伴い、小笠原村立小笠原小学校として開校する。 1970年(昭和45年)9月26日 - 台風17号の接近に伴う強風でプレハブ校舎1棟が倒壊。
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「群馬県立高崎女子高等学校」の記事における「沿革・歴史」の解説
1898年12月 - 群馬県議会において群馬県高等女学校の設立可決。 1899年5月 - 県内最初の女子のための中等学校として、群馬県高等女学校設立。 1901年6月 - 群馬県立高等女学校と改称。 1904年4月 - 「三蓋松の雲つなぎ」の徽章制定。 1912年4月 - 群馬県立高崎高等女学校と改称。 1916年 - 校歌制定。 1942年4月 - 女学生の象徴と誇りである「海老茶袴」をもとに「三蓋松茶地」の徽章制定。 1948年4月 - 群馬県立高崎女子高等学校となる。 1948年5月 - 校章制定。 1948年10月 - 定時制課程設置。 1950年9月 - 現在の「へちま襟のブレザーに六枚はぎのスカート」の制服制定。 1970年10月 - 第1回椎樹祭(文化祭を椎樹祭と命名)。 1976年8月3日 - 本白根山で登山中の生徒が死亡。 1982年7月 - 稲荷町新校舎に全面移転、11月に椎樹館落成。 1983年10月 - 国民体育大会秋季大会少年女子新体操優勝。 1984年10月 - 第51回NHK全国学校音楽コンクール金賞(最優秀賞)受賞。 1989年3月 - 松樹館完成。 1990年3月 - 定時制課程廃止。 1999年5月 - 創立百周年記念式典挙行。 2003年4月 - 文部科学省からスーパーサイエンスハイスクールに指定(~2013年3月)。 2009年5月 - 創立百十周年記念式典を群馬音楽センターにて挙行。 2011年8月 - 全国高等学校総合体育大会山岳部優勝。 2019年6月 - 創立百二十周年記念式典を群馬音楽センターにて挙行。
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沿革・歴史
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「高岡警察署 (富山県)」の記事における「沿革・歴史」の解説
1898年12月7日 - 高岡市大字御馬出町102番地に移転。 2006年4月1日 - 市町村合併に伴う警察署の管轄区域の再編が実施された。小矢部警察署の管轄だった旧福岡町の全域は高岡警察署の管轄に編入されたが、長らく旧新湊警察署の管轄だった牧野地区については住民の猛反対により編入は実現しなかったため[要出典]、射水警察署の管轄である。
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「ボリショイ・カーメンヌイ劇場」の記事における「沿革・歴史」の解説
1783年、当時の女帝エカチェリーナ2世の勅命によってオペラとバレエの専用劇場として建造された。1811年に一旦焼失したのち、1818年に再建された。また1836年にはのちにマリインスキー帝室劇場を設計するアルベルト・カヴォスによって再建されている。1886年、建物の老朽化により閉鎖された。跡地はサンクトペテルブルク音楽院となっており、かつての劇場の大階段と踊り場を建物の一部として保存している。 1885年、この劇場所属のオペラとバレエ団は1859年に竣工していたマリインスキー劇場に移管された。
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沿革・歴史
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「戸塚警察署 (東京都)」の記事における「沿革・歴史」の解説
1923年(大正12年)4月1日 - 淀橋警察署戸塚分署開設。 1925年(大正14年)10月1日 - 戸塚警察署に昇格。 1969年(昭和44年)10月21日 - 国際反戦デーに参加していた学生らが暴徒化。警察署を標的に投石や火炎瓶の投擲が行われる。 1998年(平成10年) - 現庁舎が完成。
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沿革・歴史
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1882年 - 緒方寅次郎創業。 1903年 - 緒方末次郎家業を継ぐ。 1930年 - 合名会社関屋本店設立。 1948年 - 合資会社関屋本店に改組。 1952年 - 合資会社関屋蒲鉾本店に商標改称。 1974年 - 緒方覚社長就任。 1986年 - 流通センター設立及び本社事務所移転。 1988年 - 販売部門として株式会社関屋商事設立。 1991年 - 合資会社関屋本店と株式会社関屋商事を統合し、関屋蒲鉾株式会社とする。 1999年 - 新工場設立。 2010年 - 関屋蒲鉾株式会社直売店「柳川かまぼこ処せきや」を開店。 2015年 - 末吉茂社長就任。 2017年 - 緒方尚美社長就任。
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沿革・歴史
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本願寺広島別院の前身は、長禄3年(1459年)、安芸武田氏によって、現在の武田山の麓(現広島県立祇園北高等学校付近)に建立された、龍原山仏護寺である。この寺院は安芸武田氏の影響下にあり、初代住職正信も安芸武田氏一門であった。建立当時は天台宗の寺院であった。しかし、第2世住職円誓は、本願寺の蓮如に帰依して、明応5年(1496年)に浄土真宗に改宗した。 その頃の安芸国は戦乱の日々で、安芸武田氏はその波に揉まれ、第3世住職超順の時代、天文10年(1541年)に安芸武田氏は大内氏と毛利氏に攻められて滅亡してしまう。仏護寺は堂宇を焼失するなど大きく疲弊するが、信仰心篤い毛利元就の庇護を受け、石山合戦では毛利軍の一員として畿内に出兵した。 豊臣秀吉の世になると、毛利輝元は広島城の築城に着手。その時の町割によって天正18年(1590年)、仏護寺は広島小河内(現広島市西区打越町)に移転した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏は広島を去るが、その後領主となった福島正則によって、慶長14年(1609年)に、現在の寺町へと移転させられた。 福島正則の去ったのち広島は浅野氏の支配となるが、そのまま明治維新まで浅野氏の庇護を受けた。 天保の飢饉の際には、山県郡などから困窮した多数の農民が広島城下へ流入。天保8年(1834年)1月、藩は仏護寺を拠点として農民らを集め、食事を施し路銀を与えて帰村させた。 明治9年(1876年)から約2年間、仮の広島県庁舎がここに置かれている。 そして明治35年(1902年)11月に、広島別院仏護寺と改称。その6年後の明治41年(1908年)4月に、現在の名である本願寺広島別院と改称する。 太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾が広島市に投下され、爆心地からわずか1km足らずの広島別院は廃墟と化すも、戦後の昭和39年(1964年)10月に本堂が再建され、平成6年(1994年)には本堂を中心に大規模な修復工事が行われた。
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沿革・歴史
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「岡山白陵中学校・高等学校」の記事における「沿革・歴史」の解説
1976年(昭和51年)- 岡山白陵中学校・高等学校開校。 1978年(昭和53年) - 家族同伴以外の外食をしてはならないとする生徒規約を破ったとして、下校途中に駅の立食そばを食べた生徒など145人が停学処分。 1995年(平成7年)- 管理棟竣工。 1998年(平成10年)- 中学定員を1クラス増やし、120名とした。 2009年(平成21年)- 中学定員を160名とした。 2012年(平成24年)- 新校舎竣工。記念式典。 2021年(令和3年)- 南館利用開始。中にはミネルヴァホールなど他校にはない施設が充実している。
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沿革・歴史
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1954年9月1日 - 香美郡山田町、新改村、大楠植村、佐岡村、明治村、片地村の6町村が合併し、土佐山田町が発足。 1972年7月5日 - 昭和47年7月豪雨により繁藤災害が発生。二次災害分も含め死者60人。 2006年3月1日 - 香北町、物部村と合併し、市制施行して香美市となり消滅。
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沿革・歴史
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以前は株式配当や無償交付、無償増資とも呼ばれており、商法上も株式分割と株式配当、無償交付は個別に規定が存在していたが、1991年の商法改正で株式分割に統一された。これは、「株主の所有する株式が分割により増加すること」と「株主に対し持株数に応じて一定割合の株式を無償に交付すること」が新株を発行するという点においては法的には同一の事象であるからと説明される。なお、2005年に成立、公布された新会社法では、185条で新たに株式無償割当てという概念が登場している。これは、種類株式が制度化されたのに伴い、異種の株式の交付を、従来の株式分割の概念でとらえることが困難になったためである。
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沿革・歴史
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1951年(昭和26年)1月8日 - 東海交通設立。 1977年(昭和52年)4月5日 - 営業所に止めてあったタクシーが爆発炎上。会社に5000万円を要求する電話。 2008年(平成20年)7月2日 - 豊橋市より委託され、地域生活バスタクシー『東部東山線』の運行を開始。 2009年(平成21年)1月31日 - 高師台連絡所閉鎖。
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沿革・歴史
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1872年8月4日(明治5年7月1日) - 粕壁郵便取扱所として開設。 1873年(明治6年) - 粕壁郵便役所となる。 1875年(明治8年)1月1日 - 粕壁郵便局(四等)となる。同年10月2日より為替取扱を開始。 1879年(明治12年)3月10日 - 貯金取扱を開始。 1893年(明治26年)1月21日 - 粕壁郵便電信局となる。 1903年(明治36年)4月1日 - 通信官署官制の施行に伴い粕壁郵便局となる。 1944年(昭和19年)4月11日 - 春日部郵便局に改称。 1950年(昭和25年)9月1日 - 国際電報の受付および配達事務を開始。 1956年(昭和31年)3月16日 - 武里郵便局から集配業務を移管。 11月16日 - 電話通話および電報受付事務を除く電気通信業務の取扱を、春日部電報電話局に移管。 1957年(昭和32年)11月16日 - 特定郵便局から普通郵便局に局種別改定。 1966年(昭和41年)10月1日 - 東武伊勢崎線を経由する鉄道郵便輸送(東京伊勢崎線)が廃止。専用自動車に転換。 1972年(昭和47年)2月1日 - 切手保管箱がこじ開けられ、288万円相当の切手などが盗難される。 1994年(平成6年)7月1日 - 外国通貨の両替および旅行小切手の売買に関する業務取扱を開始。 2007年(平成19年)10月1日 - 民営化に伴い、併設された郵便事業春日部支店、ゆうちょ銀行春日部店に一部業務を移管。 2012年(平成24年)10月1日 - 日本郵便株式会社発足に伴い、郵便事業春日部支店を春日部郵便局に統合。
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沿革・歴史
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1895年(明治28年)8月:室蘭警察署有珠分署倶知安巡査駐在所設置。 1899年(明治32年)8月:岩内警察署所管となり、倶知安分署に昇格。庁舎新築。 1908年(明治41年)9月:庁舎移転新築。 1913年(大正2年)5月:倶知安分署が警察署に昇格。寿都警察署が廃止され、倶知安警察署の分署となる。 1921年(大正10年)9月:寿都分署が警察署に昇格して分離。 1922年(大正11年)10月:庁舎改築。 1947年(昭和22年)12月:倶知安方面本部が設置され、倶知安、余市、岩内、伊達、寿都の警察署を統括。 1948年(昭和23年)3月:警察法施行により、国家地方警察北海道倶知安地区警察署発足し、倶知安町警察と併置。 5月:倶知安方面本部廃止。 1954年(昭和29年)7月:警察法全部改正により倶知安町警察署廃止し、北海道札幌方面倶知安警察署となる。 1955年(昭和30年)3月:港駐在所が寿都警察署管轄から倶知安警察署管轄となる。 1977年(昭和52年)11月:現在地に庁舎完成。 1978年(昭和53年)9月3日 - 検挙に反発した暴走族十数人が警察署を襲撃。木材を振り回す、投石などによりパトカーや署のガラスを割られる被害。
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鎌倉時代末期に、出羽国平鹿郡を本領としていた平鹿氏(平賀氏)の一族が、元寇に備えて西国に下り、御薗宇城を築いて拠点とした。南北朝時代に家督相続問題で家内に争いが起きたが、平鹿郡を所領としていた惣領の平賀直宗がこの高屋保に移り住んで、安芸国の有力国人領主として成長していった。 室町時代には安芸国の守護となった山名満氏(氏清の子)と対立し、応永10年(1403年)、満氏は平賀弘章が籠る御薗宇城を包囲して攻撃した。この合戦は平賀氏が他の安芸国人衆の支援を受けて3年に及ぶ長期戦となった。この戦いで弘章の子、平賀共益、平賀惟益、平賀惟元らは討死を遂げたが、最終的には山名満氏を撃退した。 時代は下り、戦国時代になると当主の平賀弘保は、文亀3年(1503年)に白山城を築いて新たな居城とした。しかし、御薗宇城は維持されたようで、廃城年は慶長5年(1600年)前後ではないかと推測される。
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「ロシア帝国国家資産省」の記事における「沿革・歴史」の解説
1802年にロシアでそれまで行政官庁として存在していた参議会制から省庁制が導入された際、国家資産、国有財産の監督権限は独立した一省には無く、これらの権限は内務省と大蔵省がそれぞれ担当していた。1811年から政府資産の管理は大蔵省国有財産局(部)と、1836年に設立された皇帝官房第五部とによって担当された。その後起きた全国的な凶作と農奴制の見直しに対応すべく、これらの件を担当する独立した一省庁の設置が検討された。また同時にこの省には、タヴリダ県の土地の再配分とジャガイモ栽培を中心とする農業の多角化に対処することも求められた。
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「竹林寺 (東広島市)」の記事における「沿革・歴史」の解説
縁起によれば、天平2年(730年)に行基によって建立され、その際に山上の桜の樹で千手観音を刻んで本尊として桜山花王寺と号したとされる。後に現在の山寺号に改められた。縁起は当地と縁があるとされる小野篁とやや強引に結び付けられていて矛盾点もあるが、応安4年(1371年)に今川了俊が竹林寺を小野篁の故郷とする伝聞を書き残すなど、後世に影響が見られる。 天文14年(1545年)にこの寺の子院である乾蔵坊の僧、もしくは平賀氏当主で僧籍に入った平賀興貞によって再興されたが、慶長5年(1600年)に毛利輝元に代わって福島正則が安芸国の領主となった。正則は寺院統制を行い、竹林寺は寺領を召し上げられて衰退した。
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「新居浜市立惣開小学校」の記事における「沿革・歴史」の解説
1895年(明治28年)宇摩郡別子尋常高等小学校分教場として設立。 1898年(明治31年)私立住友惣開尋常高等小学校として独立。 1941年(昭和16年)市立の学校となり、新居浜市立惣開国民学校と改称。 1947年(昭和22年)新居浜市立惣開小学校となる。 2018年(平成30年)新居浜市立若宮小学校閉校により、校区を編入。
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沿革・歴史
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1972年4月 - 額田郡額田町にあった豊富中学校・形埜中学校・宮崎中学校・下山中学校の4校を統合し額田町立額田中学校が発足。校舎建設を開始。 1973年 - 校舎完成・額田町立額田中学校開校。額田町立額田中学校寄宿舎(通称敬信寮)を使用開始。 1974年 - プール完成。 1989年度 - 初めて海外派遣団をマレーシアに派遣する。 1991年3月 - 開校20周年記念式典挙行。 2006年1月1日 - 額田町が岡崎市に編入されたことに伴い、岡崎市立額田中学校に改称。 2009年度 - 海外派遣団マレーシア・スリ校交流会が廃止。 2011年3月 - 開校40周年記念式典挙行。
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沿革・歴史
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1845年5月23日設立 1970年代、ニューヨーク市の治安は著しく悪化し、警察の腐敗も取りざたされたが、ルドルフ・ジュリアーニ市長が行ったコンプスタットのような犯罪抑制システムの取り入れなどの警察改革で警察の能力は大幅に向上し、1990年代以降犯罪件数は大きく減少した。 1992年7月30日、すでに麻薬売買で逮捕され仮釈放されていた警察官マイケル・ダウド(英語版)が誘拐未遂を起こしFBIに逮捕された。彼は「史上最も腐敗した警察官」と呼ばれた。 2001年に起きた世界貿易センタービルを狙った同時多発テロでは、23名の警察官が殉職している。 2010年3月19日 告訴告発管理用のコンピュータにテスト用サンプルとして住所を入力されていたことが原因で、ブルックリン区に住む80代の夫婦が8年間にわたって謂れのない捜索を50回も繰り返し受けていた事が判明。市警本部長が直接謝罪に訪問。 2013年2月21日早朝(東部標準時)、クイーンズ区で日本人留学生がパトロールカーに撥ねられ死亡。市警察は「刃物を持った男がいるとの通報を受けて、サイレンを鳴らし警光灯を点滅させて緊急走行していた」と主張するが周囲にいた人達はこの事実を否定。遺族は真相究明と責任追及のため提訴するという。2017年5月31日、地元紙が連邦地裁において和解が成立したと報じた。 2020年、2019新型コロナウイルスの対応を行う中で感染者が続出、3月27日までに全職員の11%に相当する約4100人が病休を取る事態となった。
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沿革・歴史
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創建は1276年(建治2年)とされ、日蓮を開山、日春と日法の2名を「同時二祖」としている。鷲山寺(千葉県茂原市)、本能寺(京都市)、本興寺(尼崎市)とともに法華宗本門流の四大本山の一である。 山門(二王門) 辻之坊山門(沼津城中庭の門を移築したものと伝えられている) 御宝蔵
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沿革・歴史
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「宮崎県立小林高等学校」の記事における「沿革・歴史」の解説
旧制中学校(男子校)時代 1921年(大正10年)4月1日 - 「宮崎県立小林中学校」が開校。入学資格を尋常小学校を卒業した12歳以上の男子、修業年限を5年(現在の中1から高2に相当)とする。 4月12日 - 授業を開始。 5月1日 - 開校式を挙行。この日を設立記念日とする。 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令の施行により、入学資格が国民学校初等科を卒業した12歳以上の男子に改められる。 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年(現在の中1から高1に相当)となる。 1944年(昭和19年)4月1日 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、中等学校令施行前に入学した生徒(この時の新4年生から)にも修業年限4年が適用されることとなる。 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年となる(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。旧制中学校の募集を停止。 新制中学校を併設し(以下・併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を併設中学校2・3年生として収容。 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。 旧制中学校3・4年修了者はそのまま旧制中学校4・5年生となった(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。 1948年(昭和23年)3月31日 - 学制改革により閉校。 旧制高等女学校時代 1919年(大正8年)6月18日 - 「小林町立実科高等女学校」が開校。 1924年(大正13年)4月1日 - 県立移管により「宮崎県立小林高等女学校」に改称(「実科」が取り除かれる)。 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年となる(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。旧制中学校の募集を停止。 新制中学校を併設し(以下・併設中学校)、高等女学校1・2年修了者を併設中学校2・3年生として収容。 高等女学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校4・5年生となった(ただし4年修了時点で卒業することもできた)。 1948年(昭和23年)3月31日 - 学制改革により閉校。 新制高等学校 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により、以上の旧制中等教育学校2校が統合され、新制高等学校「宮崎県立小林高等学校」(現校名)が発足。通常制(後の全日制課程)普通課程・商業課程・家庭課程を有する総合制の高等学校となった。 旧制中等学校の卒業者(5年修了者)を新制高校3年生、旧制中等学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業者(3年修了者)を新制高校1年生として収容。 旧2校の併設中学校も統合され、「宮崎県立小林高等学校 併設中学校」と称する。在校生が1946年(昭和21年)に旧制中等学校へ入学した3年生のみとなる。 4月26日 - 開校式を挙行。この日を開校記念日とする。 実施年月日不明 - 定時制の野尻分校を設置。 1949年(昭和24年)3月31日 - 併設中学校を廃止。 7月1日 - 高原分校(定時制農業課程・家庭課程)を設置。 1950年(昭和25年)4月1日 - 高原分校を高原校舎とし、通常制(全日制)農業課程畜産科と家庭課程被服科を設置。 1952年(昭和27年)4月1日 - 高原校舎の通常制家庭課程被服科を本校の家庭課程に統合。 6月1日 - 高原校舎が分離し、宮崎県立高原畜産高等学校として独立。 1961年(昭和36年)4月1日 - 西校舎(商業科)に宮崎県立小林工業高等学校が併設される。 1962年(昭和37年)5月31日 - 宮崎県立小林工業高等学校の校舎が完成し、併設を解消。 1964年(昭和39年)4月1日 - 商業科が分離し宮崎県立小林商業高等学校として独立。 1977年(昭和52年)4月1日 - 野尻分校を全日制課程の分校とする。 1991年(平成3年)4月1日 - 野尻分校(園芸科)の募集を停止。 1993年(平成5年)3月31日 - 野尻分校を廃止。野尻分校の跡地は現在道の駅ゆ〜ぱるのじりとなっている(2001年(平成13年)開業)。 1995年(平成7年)4月1日 - 普通科に体育コースを設置。 1996年(平成8年)4月1日 - 家政科の募集停止。 1998年(平成10年)3月31日 - 家政科を廃止。 2011年(平成23年)4月1日 - 宮崎県立都城きりしま支援学校小林校の高等部が併設される。 2014年(平成26年)4月1日 - 普通科に探究科学コースを設置。 2020年(令和2年)4月1日 - 併設の宮崎県立都城きりしま支援学校小林校(高等部)が宮崎県立小林こすもす支援学校(高等部)に改称。
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沿革・歴史
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1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い武射郡成東町、大富村、南郷村、緑海村が成立。 1897年(明治30年)4月1日 - 武射郡が山辺郡と合併して山武郡となる。 1913年(大正2年) - 東金電気により電灯がつく 1953年(昭和28年)4月1日 - 公平村の一部の地域(姫島)を編入。 1954年(昭和29年)10月1日 - 大富村、南郷村と新設合併し、成東町が改めて発足。 1955年(昭和30年)3月31日 - 鳴浜村の一部の地域(白幡、本須賀)を編入。 1955年(昭和30年)7月1日 - 緑海村を編入。 1970年(昭和45年)11月20日 - 寺崎地内で土砂崩れが発生。民家一軒が押しつぶされて1人が死亡。 2006年(平成18年)3月27日 - 山武町、松尾町、蓮沼村と合併して山武市となる。
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沿革・歴史
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1962年(昭和37年)8月15日:第19普通科連隊第2大隊を基幹として第40普通科連隊が小倉駐屯地において編成完結。 1977年(昭和52年)3月25日:北九州市平尾台の野焼きが山火事化したことから、福岡県知事の要請に基づき212人が出動。 1990年(平成02年)3月26日:師団近代化への改編により、自動車化。 2003年(平成15年)3月27日:第4師団の「沿岸配備型師団」への改編。 軽装甲機動車及び01式軽対戦車誘導弾が配備。 後方支援体制変換に伴い、整備部門を第4後方支援連隊第2整備大隊第3普通科直接支援隊へ移管。 2013年(平成25年)3月26日:整備支援部隊が第2普通科直接支援中隊へ改編。
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沿革・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 09:18 UTC 版)
工業用手袋製造・青写真焼付の事業を行うことを目的として1953年8月に設立された有限会社関口興業社が、昭和30年代後半、わが国の高度成長期の時代を迎え、設計制作・設計製図トレースに関する事業に転進することとし、現 代表取締役社長関口相三の親族等と共に出資することで、1962年9月に株式会社大阪技術センターとして設立される。 1953年 8月有限会社関口興業社として創業 1962年 9月株式会社大阪技術センターを設立 1998年 4月株式会社アルトナーに商号変更 2002年 2月上場5カ年計画を策定 2007年 10月ジャスダック証券取引所に株式を上場 2008年 2月新中期5カ年計画をスタート 2017年 10月東京証券取引所市場第二部に上場市場を変更 2018年 7月東京証券取引所市場第一部に上場市場を変更
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沿革・歴史
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「タイムリー (コンビニエンスストア)」の記事における「沿革・歴史」の解説
1984年 - 酒店経営から転業して創業。 1985年8月 - 株式会社平和設立。 1985年9月 - コンビニエンスストア事業開始。 1989年9月 - 株式会社タイムリー設立。 1993年2月 - 株式会社平和と株式会社タイムリーが合併する。存続会社は株式会社タイムリー。 1995年 - CMを東海地方に放映開始。 1995年 - タイムリーが100店舗達成。 1996年 - 24時間テレビ「愛は地球を救う」を支援。 1997年 - タイムリーが150店舗達成。 1998年11月 - 山崎製パンの資本参加を受ける。 1999年7月 - 平塚氏らが保有していた株を売却。山崎製パンが発行済み株式を全て購入し、タイムリーを子会社化。 2001年 - 不公平なフランチャイズ契約の改善を求め、40店のオーナーが「ヤマザキ・タイムリー加盟店被害者の会」を結成し、県協議会と共に数回タイムリー本社に集団交渉を行う。 2002年5月4日 - 山崎製パンの資本参加に際し、黒字決算に粉飾して増資を受け山崎製パンから約3億7000万円を騙し取ったとして、1998年当時の代表取締役や公認会計士らが詐欺罪と有印私文書偽造罪で起訴される。 2002年5月 - 多治見市の加盟店オーナーが9200万円の損害賠償を求める。 2003年2月- 和歌山県から撤退。16店舗が閉店し、和歌山西庄店のみデイリーヤマザキに転換された。 2004年 - 詐欺事件について名古屋地裁判決では、「山崎製パン側がタイムリーの黒字を信用していたとは考え難く、粉飾を認識していた可能性がある」として詐欺罪については無罪になった。 2008年6月20日 - デイリーヤマザキに事業譲渡をすると発表。 2008年11月1日 - デイリーヤマザキに事業譲渡し、全店転換完了。
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沿革・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 14:38 UTC 版)
1705年(宝永2年):初代・薬屋五兵衞が薬品販売業を創始 1949年(昭和24年)10月:第9代目の川端五兵衞が医薬品の卸部門を分離し「大五薬品株式会社」を設立(卸販売開始)。 1969年(昭和44年)4月:水処理薬品の販売に着手。 1976年(昭和51年)11月:株式会社山村商店と合併。 1980年(昭和55年)4月:近江薬業株式会社と合併し、「株式会社ダイゴ」に商号変更。 1992年(平成4年)2月:株式会社協進に医薬品卸部門(医療・一般薬)を譲渡。 1994年(平成6年)8月:保険薬局の「ヤクゴ薬局」第1号店となる豊郷店開局。 2005年(平成17年)10月:創業300年。
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沿革・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 02:54 UTC 版)
明治初年代 - 東京浪花節組合が結成される。 明治30年代 - 神田組と浅草組の対立が始まる。 1926年(大正15年) - 松竹の向山庄太郎が一本化を図って「東京浪曲協会」として統一し、東西の大看板が集まる浪曲大会を年2回開催する(1938年(昭和13年)に日本浪曲協会へ改名)。 1939年(昭和14年) - 協会の運営に反旗を翻した寿々木米若、二代目玉川勝太郎、初代木村友衛、(大阪の梅中軒鶯童)など若手の人気浪曲師が中心となって「浪曲総和会」を結成する。 1940年(昭和15年)5月29日 - 「日本浪曲協会」に改組する(現在の協会はこれを創始としている)。 太平洋戦争中に関西の浪曲親友協会、九州の興浪会と戦時統合して「日本浪曲会」が発足した際は、その本部と東京支部となる。戦後、再び日本浪曲協会を結成。 1945年(昭和20年) - 敗戦とともに旧に復し、再び「日本浪曲協会」になる。 1963年(昭和36年)9月27日 - 東京浅草田原町に自前の建物、浪曲協会会館が竣工する。 1968年(昭和43年) - 三門博会長の事務系排除の運営方針に反対した初代東家浦太郎はじめ有力浪曲師が、協会内に「浪曲百扇会」を結成して大会も別に開くなど内部分裂を起こす(この時期は同時に別会場で大会が2つ行われた)。 1970年(昭和45年) - 寿々木米若が会長に復帰し、百扇会組も協会に合流したことで再び一本化する。 1970年(昭和36年) - 浪曲定席の木馬亭が開場し、日本浪曲協会と木馬亭(根岸興行部)の共催の形をとる。 2012年(平成24年) - 補助金を不正受給していたことが発覚し、文化庁より5年間の補助金支給を停止される。 2013年(平成25年)11月22日 - 任意団体から一般社団法人に移行する。
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沿革・歴史
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「神戸市立本山第一小学校」の記事における「沿革・歴史」の解説
1875年(明治8年)12月1日 - 田辺小学校として民家を仮用開設 1883年(明治16年)4月 - 新盛小学校と改称 1886年(明治19年)4月 - 新盛簡易小学校と改称 1897年(明治30年)3月 - 第一次校舎新築落成 1932年(昭和7年)7月26日 - 校歌制定 1933年(昭和8年)4月1日 - 本山第二尋常小学校新設。天上川以西の児童を分離。武庫郡本山第一尋常高等小学校と改称。 1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令により本山第一国民学校と改称 1943年(昭和18年)7月 - 水練場(プール)新設 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革により武庫郡本山第一小学校と改称 1950年(昭和25年)10月 - 神戸市と合併し、神戸市立本山第一小学校へ改称 1955年(昭和30年)4月 - 神戸市立本山第三小学校を新設分離 1973年(昭和48年)6月1日 - 住居表示が本山北町になる 1977年(昭和52年)4月 - 本山南小学校、福池小学校新設分離 1995年(平成7年)1月17日 - 阪神・淡路大震災により避難所となる 2月20日 - 学校再開 8月31日 - 避難所解消
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沿革・歴史
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「小平市立小平第四中学校」の記事における「沿革・歴史」の解説
1965年(昭和40年)4月7日 - 開校 1979年(昭和54年)1月17日 - 生徒が教師に暴行。その後も教師への攻撃が続いた。同年2月9日までに16人の生徒が小平警察署に検挙、補導された。
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沿革・歴史
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「ENTRE PLACE Academy」の記事における「沿革・歴史」の解説
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沿革・歴史
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もとは、1950年3月末日創立で、阪急電鉄が発起し関西大手私鉄5社の共同経営として設立された「関西観光自動車株式会社」である。関西観光自動車は観光バス専業者だけに留まらず、日本航空と契約して伊丹空港〜大阪市内の空港輸送を行い、極東航空(現在の全日空の一部)とも業務提携し、空港送迎バスの運行も始めた。 その後、共同運営していた私鉄各社が自社で貸切バス事業に進出したことで、1954年(昭和29年)12月に阪急電鉄直系となるが、経営の不合理を排除するため、1962年(昭和37年)4月に阪急バスに吸収合併された。これにより関西観光自動車が日本航空と契約していた空港送迎バスの輸送も阪急バスが引き継いだが、日本航空と阪急バスは空港連絡バスに特化した会社の必要性を感じたため、1963年(昭和38年)6月25日に日本航空と阪急バスがそれぞれ50%出資して「大阪空港交通株式会社」が設立された。これより前の1958年(昭和33年)2月に阪神バス(当時は阪神電気鉄道自動車部)が全日空と貸切契約を結んでいたため、会社設立時は「阪急=日本航空」、「阪神=全日空」の関係となっていた。 1964年(昭和39年)5月1日に大阪(梅田)・京都・神戸の3路線で運行を開始したが、日本航空系の会社ということもありいずれも日本航空の支店・営業所を発着地とし、乗客も運行当初は日本航空の利用者とその送迎者、日本航空の社員に限定されていた。しかし、開業当初は累積赤字に悩んでいた。そこで日本航空利用者に限定していた方針を改めることになり、まず1966年(昭和41年)に京都線で競合していた藤田観光自動車の路線を譲り受けたが、その路線は全日空の京都営業所があった京都国際ホテルを発着地にしていた。譲渡を受け京都線を京都国際ホテルまで延伸し、京都線は大阪空港交通に一本化された。神戸線についても1968年(昭和43年)10月に阪神バスと相互運用することになり、神戸側では日本航空・全日空双方の営業所に乗り入れることになった。さらに1969年(昭和44年)2月1日に伊丹空港に新しいターミナルビルが完成、これにより航空会社別にあった待合室が統合されたため、日本航空利用者に限定することが完全に困難になり、1970年12月正式に日本航空利用者限定の規定が撤廃された。これと相前後して1966年12月1日に京都線が名神高速道路、1967年11月に大阪(梅田)線が阪神高速道路、1968年10月に神戸線が名神高速道路経由となり所要時間の短縮が図られ、利用客の増加につながった。1969年には初の新規路線として難波線・大阪中央線(中之島のホテルを発着)が開業、特に難波線は基幹路線の一つとなった。1970年の日本万国博覧会(大阪万博)の際には伊丹空港と万博会場を直結するバスが運行された。万博終了後も新規のバス路線やバス停の再編が行われ、1971年3月に新大阪駅を結ぶ路線が開業、1975年10月には京都線を京都駅前を経由するルートに変更、1976年8月には阿倍野線が開業した。 社章については当初日本航空と阪急バスの折半出資だったことから、日本航空の鶴丸マークに阪急電鉄の社章を組み合わせたものが使用されていた。しかし、日本航空利用者以外にも利用可能になったことからこの社章では不具合となり1978年に会社の略称の「OKK」を用いたものに変更した。 1994年に関西国際空港が開港。これに伴い関西空港から大阪駅前(梅田)・神戸・伊丹空港を結ぶ路線の運行が開始された。反面、関西空港の開港により伊丹空港路線利用客数の減少を招き、同路線の減便が進められた。一方で新規路線の開設も行われ、1997年7月には関西空港と京都を結ぶ路線、1998年7月には第二阪奈道路を経由した伊丹空港と奈良を結ぶ路線、2000年5月には伊丹空港と姫路を結ぶ路線、2001年には同年にオープンしたユニバーサル・スタジオ・ジャパンと伊丹・関西両空港とを結ぶ路線が運行を開始した。 2007年に日本航空インターナショナルが35%の株式を阪急バスに譲渡。阪急バスの出資比率が85%となり同社の子会社となる。その前年には阪急・阪神の経営統合により阪急阪神東宝グループが発足、大阪空港交通もその一員となった。 なお、2020年6月1日をもって貸切事業を廃止している。 2022年3月1日、同年7月1日をもって阪急観光バスを合併することが発表された。なお、法手続き上の存続会社は大阪空港交通だが、大阪空港交通が社名を阪急観光バスに変更する形となる。
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沿革・歴史
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古くは松前藩の所領。1678年(延宝6年)同藩のヒバ(ヒノキアスナロ。厚沢部はヒノキアスナロ自生の北限に近い)山開放により、この伐採のため本州から杣夫(そまふ)が渡来した。農業を副業として定着し、各河川流域の開墾が始められた。 1869年(明治2年)榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が松前藩の居城、福山城を攻略したため、松前藩主らは築城途上の館城(現在の厚沢部町城丘)に避難したが、追撃してきた旧幕府軍の攻撃で落城。藩主らは海路対岸の津軽半島に避難した。官軍の攻撃で旧幕府軍が箱館・五稜郭で降伏し、松前の所領回復後も松前藩は館城を拠点として「館藩」と名乗り、1871年(明治4年)の廃藩置県の際には青森県に属した。 1872年(明治5年)北海道開拓使の管轄となり、1876年(明治9年)俄虫村戸長役場を設置。 1906年(明治39年)4月に二級町村制を施行し、村名を厚沢部村とした。 1960年(昭和35年)字名地番改正、1963年(昭和38年)3月に町政施行し現在に至る。 1970年(昭和45年)5月12日 - 航空自衛隊の戦闘機 F-104Jが町内の山林に墜落。乗員1人が死亡。
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沿革・歴史
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1691年(元禄4年)に別子銅山が開坑して以来、住友は銅の製錬事業所を、別子銅山麓の山根地区、新居浜港地区(現在の新居浜市惣開町)と移してきた。しかし、いずれも亜硫酸ガスによる煙害の問題により木が大量に枯死するなどした。当時の別子銅山の支配人をしていた伊庭貞剛の決断で新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島に製錬所を移すことになった。1895年(明治28年)に住友は四阪島を買収。1905年(明治38年)より精錬所の操業を開始した。 同時期、足尾銅山などでもこの問題は深刻化しており、足尾銅山の公害問題を追及していた田中正造は、別子銅山の精錬所が無人島に移転したことを称賛し、1901年(明治34年)3月23日第15回帝国議会において「伊予の国の別子銅山は、第一鉱業主は住友である、それ故社会の事理(ことわり)人情を知って居る者で、己が金を儲けさえすれば宜いものだと云うような、そう云う間違いの考えを持たない」と演説した。 製錬所造成時には、家ノ島と美濃島は埋め立てられ陸続きとなり、家ノ島に精錬所、美濃島には社宅等が設置された。なおこの際、埋め立てには鉱滓が使用されたという。学校は私立の住友四阪島尋常小学校が1901年(明治34年)に設置され、1920年(大正9年)には生徒数1,000人を数えた(なお、同校は1961年(昭和36年)に公立に移管、同時に中学校が分離したが、いずれも1977年(昭和52年)に廃校となっている)。1922年(大正11年)には海底ケーブルにより新居浜市から電気が供給された。 しかしながら、精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害はかえって広範囲に広がる結果となり、越智郡のみならず周桑郡、新居郡、宇摩郡と、東予地方ほぼ全域が被害を被った。1909年(明治42年)、国の鉱毒調査委員会は短い多数の煙突で亜硫酸ガスを大気と希釈させる方法を提案。1915年(大正4年)までに6本の煙突が完成して稼働するも、四阪島一帯がより高濃度の亜硫酸ガスに覆われて失敗に終わる。このため、精錬所の精錬鉱量の制限や保証金支払いが行われた。この被害は、1930年(昭和5年)のペテルゼン式脱硫装置の設置、そして1939年(昭和14年)の硫煙処理装置の設置まで続いた。なお、この時の補償金をもって越智郡は越智中学校を設置。同校は今日の愛媛県立今治南高等学校の前身である。 最盛期は大正末期で、この時期は人口5,500人を超えており、1960年代前半においても約4,000人の人口を抱えていた。しかし、1973年(昭和48年)の別子銅山の閉山に加えて、新居浜東予精錬所の操業開始により、精錬所としての重要性は低下し、順次合理化が図られた。1976年(昭和51年)12月に溶鉱炉の火は消え、1977年(昭和52年)4月には一部の工場関係者を除く島民は島を離れ、小中学校も廃校となった。同じように瀬戸内の離島で大正以降三菱の銅精錬の島であった香川県直島と同じような繁栄と煙害の道を歩んだが、もとから集落の栄えていた直島と異なり、元々無人島だった四阪島は1988年(昭和63年)以降、無人島へと戻った。71年間に精錬した銅は約220万トンにのぼる。 銅の精錬所に加えて、1977年(昭和52年)には住友金属鉱山酸化亜鉛の製造工場が完成しており、製鉄の過程で排出される製鋼煙灰から亜鉛を回収するリサイクル事業を行っている。50人程度の従業員が島内で従事しており、この従業員は新居浜港から船で通勤している。 なお、四阪島の工場は住友金属鉱山四阪工場として運営されていたが、2010年10月に住友金属鉱山から株式会社四阪製錬所として分社化され、同社の工場として操業が続いている。 住友別子鉱業所四阪島製錬所(当時) 四阪島の社宅群(当時) 住友別子鉱業所四阪島製錬所全景(1910年頃の撮影)。
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沿革・歴史
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鎌倉時代末期に越中国守護名越氏が置いた越中国守護所を起点とする。元弘3年(1333年)、建武の新政を迎える際の争乱(元弘の乱)では、守護であった北条時有(名越時有)最後の拠点となり、反幕府側の御家人に囲まれて落城する際の光景は『太平記』に記述されるものとなった。 室町時代になると、守護畠山氏に代わり射水郡・婦負郡守護代神保氏が入城した。明応2年(1493年)、明応の政変で自害した畠山政長の重臣であった神保長誠は、政変で幽閉された将軍足利義材を迎え、上洛のための諸準備を進めた。 永正17年(1520年)に越後国守護代長尾為景の攻撃で落城。その後神保氏により再建され、後に越中国を支配した前田氏の頃には城代も置かれたが、江戸時代初期に廃城となった。城跡は畑とされ、江戸後期に加賀藩前田家の米倉が設けられた。 現在、遺構は射水市立放生津小学校グラウンド地下2メートルの位置にあり、地表から見えない。グラウンド周囲に有る土盛りは砂止めであり、土塁遺構ではない。1988年(昭和63年)とその翌年、1991年(平成3年)に試掘調査が行われ、出土品の一部が射水市新湊博物館で常設展示されている。2003年(平成15年)7月24日に市指定史跡に指定。
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沿革・歴史
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「智辯学園中学校・高等学校」の記事における「沿革・歴史」の解説
1965年4月 - 奈良県五條市に智辯学園高等学校を創立。 1967年4月- 智辯学園中学校を設立し、中高一貫教育を開始する。 1968年夏 - 全国高等学校野球選手権大会(選手権大会)に初出場・3回戦進出。 1976年春 - 選抜高等学校野球大会(選抜大会)に初出場・ベスト8進出。 1977年春 - 選抜大会で初のベスト4進出。 1981年末 - 全国高等学校駅伝競走大会(当時男子の部のみ)に初出場・総合41位。 1995年夏 - 選手権大会で初のベスト4進出。 2001年秋 - 国民体育大会高等学校硬式野球で準優勝。 2011年夏 - 選手権大会で16年ぶり2回目のベスト8進出。 2015年末 - 全国高等学校駅伝競走大会・女子の部に初出場・総合45位(男子の部とアベック出場)。 2016年3月- 新校舎完成。 2016年春 - 選抜大会で初の全国制覇。 2017年4月 - スポーツコース・陸上競技部が本校より奈良カレッジ・高等部へ移転。
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沿革・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/29 13:34 UTC 版)
昭和37年「東西」冷戦下において日本大学建学の精神の基に「世界調和と人類繁栄」の構築を目途に発足。当時の総裁は、衆議院議員佐藤栄作(総理大臣)である。又、会長は、日本大学会頭古田重二良である。1968年、頂点に達した日本大学学生紛争では、日本大学の予算から34億円の使途不明金が発覚し、その一部が社外交渉費として日本会を通じて政財界との橋渡しに使われていたとして、全学共闘会議により攻撃の的とされた。日本大学紛争の終焉と日本大学会頭 古田重二良の死去により、古田重二良会頭の懐刀である日本大学出身の参議院議員 田沢智治に会の運営は、実質的に引き継がれた。この後、総裁は、衆議院議員福田赳夫(総理大臣)が、務めることになる。又、1996年時点では、総裁が置かれず、総裁代行として中山太郎議員が、任命される。田沢智治理事長のもとに「日本会・日本総調和連盟」は、平成19年11月21日の田沢智治の死去まで、「日本大学(学祖 山田顕義)」と「政治家」(主に自由民主党所属国会議員)の連携のもとで積極的に推進され、「日本会・世界総調和の集い」による「各国大使館」との交流を含め、国際調和の橋渡しに貢献する。田沢智治(元法務大臣)参議院議員の死去以降は、元衆議院議員 越智通雄(自由民主党)が理事長となり、「日本会」の精神を継承し、現在に至る。
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沿革・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/23 05:39 UTC 版)
733年(天平5年)行基によって建立されたと伝えられる。福島正則の時代に衰退したが、浅野氏の時代には復興された。宝暦7年(1757年)秋、大風により吹き倒され、これを機に境内の建物が次々に再興されて現在の姿になった。
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