教師へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 01:31 UTC 版)
解散公演終了後に有楽町の高速高架下にあったちゃんこ鍋屋にて内田裕也主催の食事会(懇親会)が開かれた後は直ぐさま、店の前に待たせてあった、京都時代の友人達と家財道具一式を積んだ2tトラックで東名高速道路~名神高速道路とひた走り25日には京都の実家へ到着した。同年4月より中退した京都府立山城高等学校の定時制へ復学し、1972年春に慶應義塾大学文学部中国文学科へ入学、卒業後は修士課程へ進み教員免許を取得。1977年より慶應義塾高等学校で教鞭を執る傍ら博士課程において中国文学の研究を続ける。 中国への留学制度が正式にスタートしたことを受け、1981年に34歳で北京大学へ2年間留学。帰国後は再び横浜市にある慶應義塾高等学校にて教師を続け漢文・中国語関連の参考書、テキストブックの著者および監修者として、高校中国語教育に力を注ぎ慶應義塾高校は中国語を履修する生徒数が日本の高校では最多となる。慶應義塾女子高等学校や駿台予備校でも漢文の非常勤講師として教鞭を執った。高校での教え子は、国会議員、地方議員、新聞、テレビ、ラジオなどのマスコミ、芸能界、民間企業等、広い範囲に及んでおり、交友関係も広範囲に広がっている。 慶應義塾高校の教壇に立つようになって以来、教え子の保護者に子弟を瞳のクラスへの編入を懇願する者、芸能活動時代のことについて質問する者が決して少なくなかったそうだが、当初着任した三田校舎で女生徒に騒がれた経緯もあり、日吉校舎への転属を願い出るなど瞳はあくまで一教師としてのスタンスを保持、特に芸能活動時代のことについては、どんなに懇願されても永らくの間一切沈黙していた。
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