開坑
【英】: spud in
同義語: スパッド・イン
掘削装置を組み立て(リグ・アップ)て坑井を掘り始めること。 わが国では安全と成功を祈って開坑式と称する神事を行うのが通例となっている。 |
スパッド・イン
開坑 Spud in
開坑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 15:07 UTC 版)
開坑当時(明治中期)は、大小様々のツルハシを使った露天掘りが主だった。炭層自体はすぐに出てきたが、交通面の不備で、搬出は不便で納入先の大原郡前原製絲工場への運搬は、主に近隣からの役馬や荷車などに頼った。平田製絲や大津製絲など出雲方面への運搬は、高窪の西谷地区(現在の出雲市上島町)から三刀屋町多久輪までの道路を新設、荷車で搬出して斐伊川の舟便で運んだ。またもう一つの方法として、地元の労働者が現場から山道を人力で運搬した。運賃は、一俵(60kg)4銭くらいで、最盛期には地元の労働者の他、他地域からの従業者も多く、近隣の家に分宿していた。日露戦争下では次第に勢いを失い、衰えていった。高窪炭鉱は、諸種の事情で経営者が時々変わっているが、詳細については資料がなく、はっきりしたことはわかっていない。営者が幾人ともなく変わっている一因として、交通の便が悪いため搬出の経費が高く、経営上の採算が取れなかったことが考えられる。 当時、採掘現場の坑内の照明は菜種油等を燃料とする灯心を使用していた。更に換気も悪く、ガスが充満して灯りが消えると、一度坑外に出て外気を吸い、再び入坑作業を続けた。坑内からの石炭の搬出は、天秤棒を用いて外に出して選炭し、一俵16貫に俵詰めした。坑内の石炭から発生したガスや煙を吸い込んでいたため(これにより病気を患ったものも少なくなかった。)、坑夫を辞めた後も2-3年は真っ黒な痰が出たという。また、ガスや坑内落盤事故のため、3人の犠牲者も出た。 作業は1日3交代で、労賃は一回25銭で中には1日に2回働く者もいた。女性は水引桶で坑内に溜まった水を汲み出すのが主な仕事で、賃金は男性のおよそ7割程度だった。この炭鉱は、大正の中期頃まで続いていた。一時休坑となるが、昭和期に入り再び脚光を浴びる時代が訪れる。
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