開城合意の波紋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
2月27日、ニコライエフスクの市民代表団と赤軍の間で、開城合意文書が調印された。同日夕刻、市のホールで報告会が開催され、代表団の一人、市議会議長のコマロフスキイが、開城にあたっての条件に関して市民に報告した。代表団のメンバーは、メンシェビキおよび社会革命党だったが、このとき、政治的に相容れないはずのボルシェヴィキ革命の勝利を、心から歓迎していた。 白軍のメドベーデフ大佐は、合意文書調印の夜、日本軍の本部を訪れてこれまでの謝辞を述べ、自宅に帰って自決した。参謀長スレズキンと、諜報機関の将校2人も、メドベーデフ大佐にならって命を絶った。グートマンは、「彼らは、仲間の将校や、ニコラエフスクの市民より幸福であった」としている。
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