全部改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 05:56 UTC 版)
1933年の全面改正までに3度の改正が行われ、1906年(明治39年)には公立図書館館長の下に司書が設置され、館長・司書は奏任官待遇に引き上げられた。1910年(明治43年)には道府県図書館以外の図書館の認可・開申権限が地方長官(知事)に委譲され、1921年(大正10年)には公立図書館職員令の制定によって公立図書館職員の規定が削除された。こうした一連の改正を経ながら、日本の図書館は徐々にその数を増加させていくことになる。文部省の統計によれば、1899年(明治32年)における公私立図書館は全国で32しかなかったが、1912年(大正元年)に541、1921年(大正10年)に1,640、1936年(昭和11年)に4,609と急激な増加を見せている。 だが、市町村は勿論のこと、道府県の中にも自己の図書館を持たない自治体が多く、また持っているところも内容の充実には程遠いものであった。 その一方で、欧米の公共図書館では既に確立されていた無料公開の原則すら成立しておらず、公立図書館における図書閲覧料を徴収を許した第7条の規定が問題点として公布以来度々議論の対象となった。当時、欧米においては、公共図書館思想の高まりによって図書館の無料公開の原則の確立されつつあった風潮に逆行するものであり、日本図書館協会はたびたびこの規定の廃止を求めた。一方、政府・文部省では、社会教育の推進のために図書館の充実を進めるべきであるとする乗杉嘉壽らの主張もあり、図書館を国民教化の施設と位置づけて1910年(明治43年)に「図書館設立ニ関スル訓令」を公布、国民に「健全有益の図書」を与えて天皇中心の国家観を涵養・浸透させることを掲げた。にも関わらず、大正デモクラシーの高まりに支えられる形で公共図書館確立の動きは強まり、図書館側は政府に対して全ての自治体への図書館設置や資金・人材面での支援強化を求めるようになる。更に文部省内部でも社会教育施設としての図書館に対する期待が高まるようになってきた。こうした状況に配慮して1926年に文部省が全国図書館長会議を招集して図書館の普及発達の方策について意見を聴取し、1929年から図書館令の全面的改正に向けた準備が行われた。 だが、この頃より社会主義者に対する弾圧が強化されると、次第に図書館令改正の目的も公共図書館思想に対する否定と思想統制と国民教化のための社会教育(これは本来の社会教育とはかけ離れた性格のものである)を推進する国策機関としての充実とそのための図書館に対する統制強化へと変質していくことになる。 昭和期に入ると、公共図書館思想によって政府にとって危険な社会主義・共産主義などの書籍を含めて自由に閲覧できるような風潮が生まれる事を危惧した政府・文部省は欧米的な公共図書館思想・図書館学を排除して、代わりに日本独自の国民教化・思想善導機関として新しい図書館像を打ち立てる路線を目指すようになる。 また、公共図書館思想に批判的なドイツ系教育学者出身の帝国図書館長松本喜一を支援することで、日本図書館協会の公共図書館論を抑圧して図書館の国策機関化推進に努めた。松本らの政治工作もあり、当初は文部省の改正路線に不満を抱いていた日本図書館協会なども全国的な図書館網の整備と人員・施設の充実を条件として最終的には賛成に転じることとなった。 1933年(昭和8年)に全面改正された改正図書館令は、図書館の充実を掲げる一方で統制を通じた図書館の良化を目指すものであった。
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