江戸時代末期から明治時代初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 02:43 UTC 版)
「崩れ」の記事における「江戸時代末期から明治時代初期」の解説
慶応3年(1867年)の浦上四番崩れでは、江戸時代後期に発生した天草崩れや浦上一番崩れから三番崩れまでとは違い、キリシタンたちは自分たちの信仰を表明しており、そのため幕府も彼らを放置することはできなくなった。 長い潜伏の後についに宣教師と接触したことによって信仰心を高揚させていったこと。 18世紀後期以降、商品経済の発展で上層と下層の百姓の格差が拡大し、両者の利害が一致しなくなってきたことで、さまざまな矛盾や確執が生まれて、「村社会」という生活共同体が機能しなくなっていったこと。 信仰意識の変化による来世救済願望の突出。 これらの理由から、信徒たちは信仰を隠匿して保持するのではなく、公に信仰を表明して保持しようとするようになっていった。 浦上四番崩れより前の潜伏キリシタンたちは、従来の幕藩制秩序の枠内で来世救済と現世利益の双方求めようとしたから幕藩権力にとって模範的百姓だった。しかし、浦上四番崩れの取り調べでは、キリシタンたちが信仰に求める物は霊魂の来世救済願望のみで、現世利益に関わるものはほとんど見られなくなっていた。これは、村社会が変容し、幕藩制秩序に従っていても必ずしも現世利益の願望が達成されなくなってきたころに、長年待望していた宣教師が現れたことがきっかけで、キリシタンたちの来世救済の願望が噴出したと推測されている。 信徒たちの信仰態度の変化に伴って、江戸幕府の対応も江戸時代後期のような黙認から、摘発・改心指導と厳しい拷問へと転換した。 江戸幕府が倒れた後、明治政府は五榜の掲示によってキリシタン禁教の方針を明示し、キリシタンの弾圧を行った。これにより、棄教を受け入れない浦上の村民約3000人が総配流され、五島列島では信徒たちへの弾圧や迫害が行なわれた。欧米諸国の公使は、内政干渉をするつもりはないとしながらも、激しく明治政府に抗議し、政府は彼らに拷問をしないことを約束しながらそれは守られなかった。明治6年(1873年)にキリシタン禁制の高札が撤去され、浦上の村民たちは帰村を許された。しかし、高札撤去はあくまで「法令伝達方法の変更」によるもので、明治政府がキリシタン禁制の解除を宣言したという事実は無い。キリシタン(キリスト教)は解禁されたのでも公認されたのでもなく、あくまで黙認されただけであった。
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