江戸時代末期の細倉鉱山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 02:43 UTC 版)
天保の大飢饉は仙台藩に甚大な被害をもたらし、飢饉による人口の大幅減少は細倉鉱山にも打撃を与えた。飢饉による人口減少が鉱山の衰退を招き、鉱山の衰退は地域経済の低下をもたらし、それが更に地域の衰退を招くといった悪循環が発生した。江戸時代末期の嘉永年間、鶯沢村の農民が細倉鉱山の衰退と鉱毒などのために生活に困窮しているとの記録が残っている。 18世紀半ばの安政年間に入ると、細倉鉱山に活気が戻ってきた。鉱山の再興に力を注いだのは山師の菅原啄治で、菅原は院内鉱山、阿仁鉱山で鉱山技術を習得し、1854年(安政元年)に細倉に居を定めると、技術面そして鉱山経営にも力を発揮し鉱山復興を後押しした。菅原は明治時代に入っても細倉鉱山の発展のために活躍を続けることになる。 菅原の努力で復活を見せるようになった細倉鉱山に、幕末の混乱の波が押し寄せてきた。当時鉛は鉄砲玉に使用される軍需物資でもあったため、幕末の緊張した情勢下、藩の御軍用鉛として細倉鉱山からより多くの鉛の輸送が求められるようになった。このため鉛の輸送を担ってきた鉱山近隣の鶯沢村の農民たちの負担は急増した。あまりの忙しさに田畑の作付けもままならない状況に置かれた鶯沢村の農民たちは、負担の軽減を求めて嘆願し、結局より広域の農民たちにも輸送に携わってもらうことになった。 江戸時代末期、細倉鉱山は採掘場所が35ヵ所あって、うち33ヵ所が採掘所として名がつけられていたため、細倉三十三ヶ山と呼ばれるようになった。これはこれまで細倉鉱山で稼動していた場所を全て数えると35ヵ所あり、33ヵ所には名がつけられていることを意味しており、必ずしも同時期に33ヵ所で採掘が行われていたわけではないが、江戸時代に細倉鉱山が盛んに採掘が行われてきたことを示している。
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