江戸期における発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 10:19 UTC 版)
「有松・鳴海絞り」の記事における「江戸期における発展」の解説
もともと絞り染めの生産は有松のみで行われ、隣町の鳴海で販売されたものだった。当初は、蜘蛛の巣のような絞り模様を染めた手拭いを竹竿にかけて旅人に売って小銭を稼いだが、寛文年間(1661年~1673年)に馬の手綱に適した錣絞り(しころしぼり)が開発され、これを藩主に献上したことで広く知られるようになった。寛文年間には、紅や紫などの多彩な絞りも発明されて旅人の目を惹きつけ、しだいに技術も進歩して有松の絞り染めは大きな進歩を遂げた。『尾陽寛文記』によれば、1696年(元禄9年)の時点で有松村には2,3軒の絞り屋しかなかったものの、半世紀後には有松・鳴海地方一円で絞り屋が見られるようになったという。 有松での絞り染めが盛んになるにつれ、周辺地域でも絞り染めが生産されるようになっていった。なかでも東海道の宿駅として知られた隣村の鳴海においては、比較的早期に農家の副業の域を超えて絞り染めが行われるようになり、各工程で職工を雇って絞り染めを専業とする者もいて、「鳴海染め」の名で知られるようになった。他村で濫造された絞りには質の悪いものもあり、絞り製品そのものの評判を落とすこともあった。こうした状況に対し、有松は尾張藩に他地域における絞り染め生産の禁止を訴え、1781年(天明元年)尾張藩は有松絞りの保護のため、有松の業者に絞りの営業独占権を与えた。有松に「絞改会所(しぼりあらためかいしょ)」を置き、製品の規格を定めて検印を押すこととしたものである。ただし、絞りの生産が全て有松の町で行われていたわけではなく、鳴海を含む周辺地域への工程の下請けが広く行われていた。なかでも「くくり」の工程は、有松近辺の村々において婦女子の賃稼ぎとして広く普及した。1822年(文政5年)の「尾張徇行記」によれば、鳴海村や大高村など有松村以外で絞り染めを行う者は有松村に運上金を納めており、尾張藩の庇護によって有松が生産販売を一手に掌握していたことがうかがわれる。その後も絞り染めに対する統制は強化され、有松は尾張藩の庇護の下絞り染めの独占を続けたが、幕末になると天保の倹約令など凶作に苦しむ領民の生活扶助のため独占権が解除された。 尾張藩の保護によって高級な土産物として発展した有松絞りは、参勤交代や、武士や医者や商人など江戸に用あって東海道を往来した者たちによって、江戸をはじめ全国に知られるようになった。藩主の光友は、5代将軍綱吉に将軍職継承を祝して絹で絞った有松絞りの手綱を「くくり染め」と名付けて献上し、吉例とした。参勤交代の諸大名のほとんどが、竹田庄九郎を創業者とする「竹屋」で休息し、土産物として有松絞りを競って買い求め、江戸や大阪へもしばしば出荷した。その盛況ぶりは、当時の子どもが唄った盆歌「ぼんならさん」にも「ここはどこかと子供に聞けば ここは有松竹屋の店よ 店の飾りは鯉に滝 雲に竜 笹に虎」と唄われている。「竹屋」の2代目竹田庄九郎は17世紀後半に浴衣が一般に普及するに伴い、衣料としての絞り製品の開発に着手するとともに、藍染以外の染色の開発にも携わり、産業としての有松・鳴海絞りの基礎を構築したことでしられる。 有松・鳴海絞りの最初の隆盛期は、18世紀中頃にかけての江戸時代前半から中盤とみられる。1781年(天明元年)には有松村は110戸610人にまで規模拡大し、人口のうち121人は仕事のために他村から有松に通う下人であった。 有松村は1784年(天明4年)の大火で全焼し、有松・鳴海絞りは壊滅的な打撃を受ける。およそ20年をかけた復興により、かつて萱葺であった屋根はすべて瓦葺となり、火災に強い塗籠造で再建され、現代に残る重要伝統的建造物群・町並み保存地区としての有松の風景がうまれた。19世紀はじめの時点で2軒だった絞り問屋は、文化文政時代(1804年-1830年)のうちに20軒に及び、第二の隆盛期を迎える。1844年(天保14年)には135戸516人の人口のほかに多数の下人が通い、大火以前を上回る発展を遂げた。歌川広重の東海道五十三次をはじめ、役者絵や美人画の衣装として多くの浮世絵に描かれた。十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』においても、金がなくて手拭いしか買えなかった登場人物・弥次郎兵衛を通して「ほしいもの有まつ染よ人の身のあぶらしぼりし金にかへても」と描写された。
※この「江戸期における発展」の解説は、「有松・鳴海絞り」の解説の一部です。
「江戸期における発展」を含む「有松・鳴海絞り」の記事については、「有松・鳴海絞り」の概要を参照ください。
- 江戸期における発展のページへのリンク