江戸期の創架
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:28 UTC 版)
創架は元禄11年(1698年)8月1日で、徳川家康の江戸入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうち、4番目となる。架橋は江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生から50歳を祝う記念事業として、関東郡代の伊奈忠順の指導で行われた。 架橋には上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされる。場所はもともと大渡し(深川の渡し)があったところで、現在の橋がある位置よりも100mほど上流(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)にあった。当時の隅田川の最下流河口、ほぼ江戸湊の外港だったところで、多数の廻船が通過し、付近には船手番所も置かれていた。したがって船の通行を阻害しないように完成した橋は、当時としては最大規模の大橋として造られた。橋脚は満潮時でも水面から3m以上あり、長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)、橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残っている。 「永代橋」という名称は、架橋された江戸対岸に元あった中洲の永代島(現在の江東区富岡。ここには既に永代寺が創建されている)にちなむ。江戸幕府が末永く代々続くようにという後から附けられた慶賀名という俗説もある。 元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士の吉良上野介屋敷(所在地は現墨田区両国)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという。
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