江戸期の堀江
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:11 UTC 版)
堀江は大坂城下の南西端に位置し、陸地になったのが最も遅い低湿地であり開発は遅れた。石山合戦の時期は、この地域はまだ海だったと思われ、石山本願寺を支援する毛利をはじめとする大名方と織田信長方の水軍同士の戦闘(木津川の戦い)がこの付近で行われている。 堀江川開削と堀江新地の開発以前には堀江という地域区分はなく、西横堀川沿いに横堀呉服町、道頓堀川沿いに新難波町、木津川沿いに下博労町、長堀川沿いに宗無町・次郎兵衛町と、縁辺部に町があるだけだった。慶安元年(1648年)に玉造口定番の屋敷地拡大のため、玉造の8つの町(二本松町・北新町・大津町・東伊勢町・伏見伊勢町・伏見清水町・伏見長屋町・越中町1丁目)が下博労町の内側に移転して新玉造8町が成立したが、それでも大半は荒地の状態にあった。
※この「江戸期の堀江」の解説は、「堀江 (大阪市)」の解説の一部です。
「江戸期の堀江」を含む「堀江 (大阪市)」の記事については、「堀江 (大阪市)」の概要を参照ください。
- 江戸期の堀江のページへのリンク