江戸期の改良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:39 UTC 版)
江戸幕府は1635年に500石以上の船を禁止し没収したが、3年後には商船については例外として許可した。しかしながら鎖国政策の為、外洋航行の必要は無く、内海・沿岸航海用に改良がされた。 弁才船の隆盛は18世紀中頃に行われた合理化を要因としている。それまでの廻船は帆走・櫓漕兼用という中世的な要素を色濃く引きずっていたが、17世紀に入って幕藩体制の安定化に伴う経済の爆発的な発展は、それまで有力大名と結びついていた特権豪商を衰退させ、海運にも価格競争を求めるようになった。 その為、廻船業者達は、航海技術を向上による航海の迅速化と、帆走専用化による水主の削減を目的とした改良を行った。その結果、18世紀中頃以降、近世海運は大きく発展した。 船体構造 近世前期と比較して後期の弁才船は堪航性の向上を目的とした各種部材の厚み・太さの増加、舷側の高さを増すための部材(はぎつき)を追加している。更に竜骨に相当する航と接合する根棚が立ち上げ、更に根棚と接合する中棚が横に広がることで安定性の向上と積載量の増大を実現している。これにより、沖での航海が可能になった弁才船は従来の地乗り(沿岸航法)から沖乗り(ただし、磁石以外は勘と経験に頼った)への転換がなされた。 帆 江戸初期は経済性の問題から性能の良い木綿は軍船を除き、あまり用いられず筵帆が中心であった。しかしその後、木綿の国産化が進むと廻船にも木綿帆が用いられるようになり17世紀後半には弁才船でも標準化される。当初は薄い木綿布を二枚重ね、太い木綿糸で刺し子にした刺帆が用いられたが、1785年(天明5年)に工楽松右衛門が、太い木綿糸で織った丈夫で手間もかからない織帆を開発し、瞬く間に普及した。 帆装 下の帆桁の廃止や帆桁の可動範囲の拡大・帆のふくらみの調整と、船型の改良による安定性、舵の大型化による操舵性の向上により、横風帆走や逆風帆走を可能にした。 舵 操舵性の向上のため時代を下るにつれ大型化したが、浚渫を基本的に行わない当時の日本の港湾に合わせて舵を引き上げられるようになっていたので、荒天時には波浪により舵や船尾が傷ついたり破壊されることがあった。 轆轤 轆轤の装備により帆の巻上や伝馬船・荷の積み下ろしの労力が軽減し、省力化に貢献している。
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