江戸期の甲賀古士
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江戸時代、多羅尾氏が代官世襲を許されるなど家康の伊賀越えを助けた甲賀の武士が重用された。一方、甲賀古士は寛文から元禄頃、江戸幕府へ武士身分の獲得を目指して嘆願運動を行う。前述の「甲賀五十三家」「甲賀二十一家」の語も、初出は寛文2年(1667年)に甲賀古士が作成して幕府に提出した『乍恐以訴状言上仕候』(おそれながらそじょうをもってごんじょうつかまつりそうろう)であり、江戸時代に入ってから作られた用語である。『乍恐以訴状言上仕候』などで甲賀古士たちは、彼らの先祖が徳川家康や幕府に仕えて貢献したとする由緒を主張し、これが後世「甲賀忍者」のイメージの原型となる。この訴願は幕府に認められず、100年余り訴願は中断する。この間に従来の地域社会が変化して本家と分家の主導権争いが起こり、寛政期の訴願にも反映される。寛政期の嘆願では、寺社奉行に忍術書『萬川集海』を提出した。この行動が、江戸時代社会に「甲賀忍者」の存在を広く知らしめることになった。 幕末になると甲賀古士たちはかつての栄光を取り戻すために佐幕から倒幕へ転じ、甲賀隊を結成して小松宮彰仁親王の下で戊辰戦争に参加する。甲賀古士としての誇りをかけて訓練を重ね、庄内藩と戦った関川の戦いでは他の諸隊から賞賛されるほど活躍した。
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