江戸期の瀬上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 23:09 UTC 版)
瀬上という地名は江戸時代より見え、薩摩国甑島郡甑島郷(外城)のうちであった。村高は「三州御治世要覧」には56石余、「旧高旧領取調帳」には81石余であったと記されている。 江戸時代の測量家である伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」では瀬上村の家数は127あったと記録されている。 瀬上村ではなまこ池のナマコと盆山石が採取され、ナマコは将軍(征夷大将軍)に定期的に献上された。篤姫が徳川家に輿入れした際に薩摩藩が献上した物品に含まれていた硯は瀬上村で産出された盆山石(冷泉石)が使用されたとされている。 江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である『三国名勝図会』では瀬上の眺浦について以下のように記述している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}上甑村、瀬上の海邊にあり、海渚に海鼠池、及ひ旗間池、鍬崎池等あり、此海邊沙渚平遠にして碧石多く、盆山石を産す、高低の山阜相連り、島嘴突出し、海上には、天草島、及ひ肥薩の遠山畫を呈し、櫻島嶽を雲際に望み、海陸の風景佳絶にして、上甑第一の勝處なり、 —三国名勝図会第三〇巻
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