江戸期の春山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 22:44 UTC 版)
「春山町 (鹿児島市)」の記事における「江戸期の春山」の解説
江戸時代には薩摩国日置郡伊集院郷(外城)のうちの春山村となり村内は上床、桟敷原、馬場、寺脇、森園などの字にこの頃から分かれていることが分かっている。村高は寛文4年の「郡村高辻帳」及び「天保郷帳」ともに253石余、「旧高旧領取調帳」には507石余とある。 幕末にかけて藩内では郷士数が激増し、貧窮の武士は中宿と称して家計の立て直しを図りに鹿児島城下などの麓から当地に疎開して開墾に従事していたとされる。また、桟敷原一帯は薩摩藩内屈指の軍馬育成地であり、付近を春山野牧と称して、年間3,000頭余りの馬を藩外に移出していた。南部には春山狩倉と呼ばれる藩庁直営の山林地域で、山奉行がおかれるなど大規模なものであった。しかし、宝永6年までに春山野牧は曽於郡に移転している。
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