江戸期の堀江の娯楽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:11 UTC 版)
「堀江 (大阪市)」の記事における「江戸期の堀江の娯楽」の解説
堀江新地には寺を作る広い土地が確保され、元禄11年(1698年)和光寺という大きな寺が作られた。長野の善光寺は、本田善光が「難波の堀江」から金銅製阿弥陀像(欽明天皇の時代に百済の聖王(聖明王)から献呈されたが、仏教を嫌う守旧勢力によって川に投げ捨てられた)を拾い上げて故郷に祀ったことが起源とされているが、これに因み智善上人が「この場所こそ善光寺如来の出現の地」であると寺堂を建立した。この寺には大きな池があって真ん中に浮御堂があり阿弥陀如来をまつっていたため通称『あみだ池』と呼ばれ親しまれ、周辺は娯楽の中心となっていった。境内および周辺には講釈の寄席・浄瑠璃の席・大弓や揚弓・あやつり芝居・軽業の見世物や物売りの店が並び、2月の涅槃会に4月の灌仏会は特に賑やかだった。富くじの興行や植木市も有名であった。なお、和光寺が立地する堀江新地北部の当時の町名・御池通や、堀江の西部を南北に貫く通り・あみだ池筋の名はこの寺に由来する。 大坂相撲も堀江が発祥である。江戸初期は気風が荒々しく、相撲興行は観客同士の喧嘩、口論、暴力沙汰が耐えなかったため長い間幕府により禁止されており、最初は寺社への寄進名目の勧進相撲しか許可されなかった。寺社への寄進を目的としない興行的な勧進相撲は大坂の南堀江で元禄15年(1702年)に解禁され、以後さまざまな力士らが勧進元となり職業相撲を繰り広げ、やがて大坂相撲が公の許可で相撲興行ができるようになったため、全国の力士が試合のため堀江に集まるようになり、18世紀後半までは日本中の相撲の中心地となった。 芝居も盛んになり、豊竹此太夫らが人形浄瑠璃を堀江で演じるなど道頓堀の芝居街に負けない賑わいを見せた。また御池通の堀江遊郭は、幕府公認の三大遊郭の一つ新町遊廓に匹敵する賑わいを見せた。さまざまな人形浄瑠璃や浮世草子など小説の舞台となっている。
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