江戸期の勧農
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/05 23:59 UTC 版)
江戸時代になると社会が安定し、支配層となった武士は儒教精神に基づく穏健な支配、すなわち仁政を指向するようになった。その中で、支配層は農民を育成するため、年貢による収奪だけでなく、様々な勧農施策を実施した。特に1643年(寛永20)ごろに発生した大飢饉を契機として、大名や旗本らの領主層は、生産収入を確保するため、積極的に新田開発などの勧農を行った。これにより、耕地が大幅に増加し、17世紀当初の約160万町歩が18世紀初めには約300万町歩にまで激増した。 江戸中期には、農村生活の疲弊が見られるようになったが、18世紀後期~19世紀前期(寛政期~文化文政期)ごろ、幕府は農村復興を大々的に進め、灌漑用水の整備や荒廃地の開発、そのための資金融資を実施するとともに、有能な者を代官に任命して長期間、同一職務にあたらせた。これらの代官は諸々の勧農を積極的に遂行していき、各地で領民から名代官として顕彰され、現代まで顕彰碑や代官を祀る神社が大切に残されている。江戸幕府8代将軍徳川吉宗は、すでに西日本では飢饉の際の救荒作物として知られていた甘藷(サツマイモ)の栽培を儒学者・蘭学者である青木昆陽に命じ、関東においてこれを広め、度重なる飢饉を救ったとされる。
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