江戸期の京橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 02:50 UTC 版)
江戸期の京橋は、長さは68間(約124m)、幅は4間(約7.3m)であり、『国富家文庫』によると1673年(延宝元年)から幕末までに6回かけ替えられた。京橋の西端には大門があり、門は柱の間隔が1丈3寸(約3.1m)であった。国富家文書によると、夜間(およそ晩の8時頃から朝の4時ごろ)は、閉門し、その間は脇の小門をくぐって出入りしていた。なお、もと京橋の門が、現在岡山市南区小串のある民家の門として再利用されている。門の南に接して藩の触れを掲げた高札場があった。寺の開帳の知らせなどの辻札も、藩の許可を得て立てる場所もあったとされる(真光院文書)。岡山藩は城下町郭内の入り口に位置する京橋の美観維持に努めていた。干し物を禁止し、商売も厳しく制限し、橋守を置いて毎日欄干を掃除させ、朝6時ころには橋の上に寝ているものを追い払っていた。「評定留」(池田家文庫)の宝永4年8月19日(1707年9月15日)の項には、岡山藩の町奉行が、「京橋の上で夕涼みをする町人が多く、見苦しいので、番人を付けて追い払わせていたが、秋風も立って人が少なくなった。もう番人をやめてもよろしいでしょうか」と伺いに対し、家老が「そうせい」と答えた記録がある。
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