江戸期の人口増加と食糧増産とは? わかりやすく解説

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江戸期の人口増加と食糧増産

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 04:51 UTC 版)

新田」の記事における「江戸期の人口増加と食糧増産」の解説

日本では戦国時代、各大名国力高めるため競うように米の増産農地開拓取り組んだ戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、食糧増産されたことなどで人口増加したが、かえって食糧不足し主食とする米が必要とされた。 そのため江戸時代初期17世紀以降江戸幕府各藩奨励のもと、役人農民たちの主導で湖や潟、浅瀬などで埋め立て干拓が行われ、陸地増やされ耕地となった。あるいは丘陵地帯台地谷地(やち・やつ、台地台地の間の谷間湿地帯)など内陸部荒れ地でも新田開拓が行われた。こうした新田開発通じ江戸時代初期全国1800万石だった石高は、江戸時代中期には2500万石後期には3000万石と倍増に近い勢いで拡大し、特にそれまで畿内などに比べ開発遅れていた東北関東中国九州などでは湖沼干潟新田開発され農地大きく増えたその背景には、測量技術の向上がある。大量を必要とする水田場合は、自然の降雨のみによる供給不可能であり、灌漑用水整備欠かせないしかしながら平坦地、あるいはごく緩やかな傾斜地では用水路掘削不可能であり、戦国時代以前一定上の傾斜地でないと水田開拓不可であった。それが大名幕府主導による大規模な測量によって、平地開拓され水田への水供給可能になったのである。また逆に湖沼や泥湿地のような場所に大規模な排水路整備して水田化行われた。あるいは干潟において干拓工事による水田化行われた江戸幕府は、17世紀後半無謀な新田開発乱発を一旦は抑制したが、8代征夷大将軍徳川吉宗時代行われた享保の改革では、「見立新田十分一の法」などを施行し開発者利益保証することで商人など民間による新田開発奨励した。また10代征夷大将軍徳川家治など、多く将軍老中新田開発政策的に行った。 これら江戸期大規模な開発により、それ以前湖沼干潟三角州広がっていた地域から水辺失われ、自然形態影響及ぼしたともいわれるまた、時代を経るに従い河川敷扇状地など水害の常襲地にも新田形成されたため、相対的に農地の災害感受性は高いものとなり、ひとたび台風などの集中豪雨災害発生する地域経済壊滅的なダメージを受けることとなった加賀藩の例では無秩序な新田開発への対応として定期的な河川工事川除普請)を余儀なくされている。

※この「江戸期の人口増加と食糧増産」の解説は、「新田」の解説の一部です。
「江戸期の人口増加と食糧増産」を含む「新田」の記事については、「新田」の概要を参照ください。

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