堀江新地の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:11 UTC 版)
江戸幕府は天和3年(1683年)に淀川水系の河川改修を河村瑞賢に命じ、河川改修と並行して新地開発も行われるようになった。安治川開削と安治川新地、堂島川・曽根崎川改修と堂島新地が成立したのち、元禄11年(1698年)から堀江川開削と堀江新地の開発が始まった。 堀江川の名は、仁徳天皇が開いたという「難波の堀江」に由来するが、両者は場所が一致せず直接の関係はない。「難波の堀江」は上町台地北端から現在の吹田市江坂辺りまで長く延びていた「天満砂堆」という砂州を切り開いて、当時の淀川水系・大和川水系を西流させたもので、現在の大川天満橋付近に当たる。 堀江新地の開発によって堀江に24町(御池通1~6丁目・北堀江1~5丁目・南堀江1~5丁目・橘通1~8丁目)が成立。同時に道頓堀川の南岸に5町(幸町1~5丁目)、安治川開削により旧河道となった古川沿いに4町(富島1~2丁目・古川1~2丁目)が成立し、堀江新地33町と総称された。なお、堀江新地に含まれない縁辺部の町はその後22町を数えるようになった。
※この「堀江新地の開発」の解説は、「堀江 (大阪市)」の解説の一部です。
「堀江新地の開発」を含む「堀江 (大阪市)」の記事については、「堀江 (大阪市)」の概要を参照ください。
- 堀江新地の開発のページへのリンク