堀江商圏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 03:07 UTC 版)
ベトナム戦争中(1964年—1969年)、塩埕区の七賢三路塩埕国小は高雄市の西門町と称された堀江商城が存在していた。堀江地区は日本統治時代に愛河に頭前、後璧の架渠が建設されたことに由来する。高雄港築港計画が実施されると後壁は埋め立てられたが、それに代わる排水施設が必要となり現在の七賢三路と瀬南中街付近に水路を掘削、塩埕南北を連絡する小運河が開通し堀江称された。1938年に堀江町に商店街が誕生、国民政府時代になると堀江は暗渠化され大溝頂と称されるようになると、南部地区の住民が移住してくるようになった。戦後の混乱期で台湾では物資が欠乏しており、同時に政府による出国及び外貨制限を行った結果、一般の商店での輸入品の入手は困難となった。しかし堀江商城では高雄港に隣接し、そこに入港する船舶の船員が持ち込む商品が流入し、密輸品はが集中、台湾南部で有数の外国製品の集散地となった。その後大溝頂一帯(五福路から大公路一段)の違法建築の撤去が進むと、その地の商店が現在の商城に移転するなど商業地域として右割ったが、高雄市の行政中心が塩埕から移転したことにより、大新百貨を中心とする堀江商圏から東の新興区の大統百貨及び新堀江購物中心を中心とする五福商圏へと移った。堀江商場は既に商業地としての活気は無く、また人口も減少し昔日の反映の面影が残る地域となっている
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