堀江メール問題での失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:50 UTC 版)
「堀江メール問題」も参照 2005年(平成17年)の総選挙で惨敗した民主党は敗北の責任を取って辞任した岡田克也代表の後任に前原誠司を選出して、野田は前原執行部で国会対策委員長に再任した。しかし、2006年(平成18年)2月に永田寿康が引き起こしたライブドア元社長の堀江貴文の総選挙立候補をめぐる堀江メール問題では、当初このメールの信憑性を疑わずに永田を擁護する対応をとったため国対委員長を引責辞任した(のちに前原も民主党代表を辞任)。なお、このメール問題について2008年(平成20年)に刊行された民主党秘書らによる『民主党10年史』(第一書林)では「普通の企業なら当然そなわっている危機管理と統治能力がなかった」、「党執行部の仲良しグループ化が生んだ情報囲い込み」が原因だったと指摘された。また馬淵澄夫によれば、国対委員長を辞任した野田と神楽坂のバーで飲んだ際、野田は「いやー、いろいろあったけど墓場まで持っていくしかねぇな」と話したという。 国対委員長辞任後は科学技術政策ワーキングチームの座長として宇宙の軍事利用の検討を行い、防衛目的の利用はできないという従来の政府解釈を転換し、非侵略での宇宙利用を容認する「宇宙条約」の締結を進める方針や「宇宙庁」の設置を主張した。 2007年(平成19年)11月から2008年(平成20年)4月まで国土審議会委員を務めた。 2008年(平成20年)8月に「本当の二大政党なら政策論争をしないと意味がない」と主張して、民主党代表選への立候補をあきらかにしたが、幹部の松本剛明に強く自制を求められるなどみずからのグループをまとめきれず、さらに安住淳国対委員長代理(当時)からいわゆる偽メール問題の責任を挙げられ自省を迫られるなど、推薦人(20人)確保のめどが立たず、立候補を断念。これにより、小沢一郎代表体制の継続が事実上決まった。野田の立候補断念に反発した馬淵澄夫は、グループを脱会した。 2009年(平成21年)5月の小沢代表辞任に伴う後継選挙では、岡田克也を支援した。岡田は鳩山由紀夫に敗北したが、岡田が鳩山代表のもとで幹事長に就任すると幹事長代理として執行部入りした。
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