堀江信彦体制
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「週刊少年ジャンプ編集部」の記事における「堀江信彦体制」の解説
後藤の退任が迫る中、若菜をはじめとする取締役会では後任に若菜の大学の後輩である鳥嶋を推す声が高まる。これを受けて、第三編集部は『WJ』編集部に編集長代理を新設し、鳥嶋を昇格させる形で就任させた。しかし、後藤は退任において後任に鳥嶋ではなく3期下の堀江を指名し、自身は『WJ』発行人及び第三編集部部長に昇格した。この決定を受け、鳥嶋は高橋俊昌を引き連れ『WJ』を離れ、新たに『Vジャンプ』を創刊し、初代編集長に就任した。現場に顔を潰された上層部はこの決定に激怒し、鳥嶋を第三編集部次長に昇格させ堀江の直属の上司とした。これ以降、『WJ』編集部は大混乱に巻き込まれ、まともな運営が不可能となった。当時の混乱ぶりは西村の『さらば わが青春の『少年ジャンプ』』(文庫版)に詳しい。 1994年(平成6年)12月末に発売の1995年(平成7年)3・4号において、史上最高発刊部数653万部数を記録。しかし、約半年後の1995年5月に看板作品であった『ドラゴンボール』が連載終了し、部数が急激に減少に転ずる。編集長の堀江は『ドラゴンボール』の終了を知らされていなかったという(『ドラゴンボール』の初代担当は鳥嶋であった)。さらに、翌1996年(平成8年)に『スラムダンク』も連載終了し、部数減少に拍車がかかることとなる。この年の発刊部数は前年を下回った。これらの責任を取らされる形でこの年、取締役会直属の人事で堀江は更迭、鳥嶋が編集長として『WJ』に呼び戻されることとなった(高橋も共に復帰)。堀江は『メンズノンノ』編集長に転出する形でジャンプおよび第三編集部を去った。 社内で完全に失脚した堀江は2000年(平成12年)の『BART』廃刊をきっかけに退職し、コアミックスを設立。『コミックバンチ』『コミックゼノン』など、WJで連載経験のあった作家を起用した雑誌を手がけ、編集者ならびに経営者としての成功を手にした。また、堀江がコアミックスを創設するにあたって、根岸も同社へと異動している。 詳細は「堀江信彦#来歴・人物」および「週刊コミックバンチ#特徴」を参照 「コアミックス#集英社との関係」も参照
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