堀江の災害、特に津波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:11 UTC 版)
「堀江 (大阪市)」の記事における「堀江の災害、特に津波」の解説
江戸時代の堀江はたびたび大火事を出した。住民の失火ばかりでなく、町内に密集する金属精錬の作業場も出火原因の一つであった。寛政3年(1791年)には「堀江・嶋之内焼(寛政南の大火)」と呼ばれる大火に見舞われ、焼失町数87、焼失世帯数13,382に及ぶ南北堀江の大半と嶋之内の全域を焼き尽し、三津寺、八幡宮などの神社仏閣や日本橋、毛綿屋橋、隆平橋、堀江橋などが焼け落ちた。元治元年(1864年)8月には、南堀江の西横堀川周辺に集中していた銅吹き屋など金属精錬業者、金属加工業者の中から出火し、付近一帯を焼失した。 また、元が低湿地だったこともあり、淀川水系の氾濫や台風の高潮では大きな被害を出した。河村瑞賢の元禄の工事の後も、大坂の河川は上流からの土砂がたまり川底が浅く洪水や高潮が起こりやすかった。大きな船も川底の浅さのため市内に遡れない状態で、以後明治中期に至るまで何度も河川改修の陳情が出されている。 高潮や洪水ばかりでなく津波も堀江を襲った。安政元年(1854年)11月4日、遠州灘から紀伊半島南東沖一帯を震源とするマグニチュード8.4の巨大な南海地震、安政南海地震にともなって発生した津波では、四国や紀州に壊滅的な被害が起こったが(稲むらの火の逸話は有名である)、大阪湾奥の天保山にまで山のような津波が押し寄せ大坂中の川に深い泥水が侵入した。揺れる地面や家屋の倒壊を恐れた住民は堀や川に浮かぶ船に避難したが、これが被害を拡大した。無数の船が津波に押し流され上流に殺到し、道頓堀川などに架かる橋に次々衝突して転覆しその衝撃で橋を落とし、船中や橋上の人は川に投げ出された。大小の船がさらに下流から押し流されてきて転覆した船や壊れた橋の上にうず高く折り重なった。川沿いの家々も津波によって浸水し破壊され、これらの要因で多くの犠牲者が出た。実は宝永四年(1707年)の宝永地震の大津波でも全く同じように、船による被害が出ており、その教訓が忘れ去られた故の悲劇であった。
※この「堀江の災害、特に津波」の解説は、「堀江 (大阪市)」の解説の一部です。
「堀江の災害、特に津波」を含む「堀江 (大阪市)」の記事については、「堀江 (大阪市)」の概要を参照ください。
- 堀江の災害、特に津波のページへのリンク