稲むらの火
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稲むらの火(いなむらのひ)は、1854年(嘉永7年/安政元年)の安政南海地震による津波に際しての出来事をもとにした物語。地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説く。小泉八雲の英語による作品を、中井常蔵が翻訳・再話したもので、文部省の教材公募に入選し、1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された。防災教材として高く評価されている[1]。
- ^ a b c d “稲むらの火”. 気象庁. 2013年9月29日閲覧。
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月3日閲覧。
- ^ a b c d “中井常蔵氏のプロフィール”. 稲むらの火資料室. 2013年9月29日閲覧。
- ^ a b c 今村明恒「「稻むらの火」の教方に就て」『地震 第1輯』第12巻第8号、日本地震学会、1940年、360-374頁、doi:10.14834/zisin1929.12.360。
- ^ 山崎登 (2011年2月14日). “スタジオパーク 「教科書に復活した"稲むらの火"」”. NHK. 2011年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月29日閲覧。
- ^ a b 『濱口梧陵傳』『濱口梧陵手記』, 武者金吉『日本地震史料』毎日新聞社、1951年, p1576.
- ^ 宇佐美龍夫、大和探査技術株式会社, 日本電気協会『わが国の歴史地震の震度分布・等震度線図』日本電気協会、1994年。 NCID BN10781006 。
- ^ 気象庁 (2003年3月1日). “「稲むらの火」と史跡広村堤防”. 津波ディジタルライブラリィ. 2015年11月6日閲覧。
- ^ 『毎日新聞』大阪本社版 1994年6月26日 朝刊「来神百年・ハーンが見た関西:稲むらの火(和歌山)」、外部リンク「稲むらの火」の「資料室」内に収録。
- ^ “アジア地域における「稲むらの火」普及プロジェクト”. アジア防災センター. 2013年9月29日閲覧。
- ^ 『ほんとに彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行著 P161-162。幻冬舎、2011年7月。ISBN 978-4344020252
- ^ “国連、11月5日を「世界津波の日」に制定 日本が提案”. 日本経済新聞. 2015年12月12日閲覧。
- 1 稲むらの火とは
- 2 稲むらの火の概要
- 3 防災啓発
- 4 関連文献
稲むらの火
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安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震の津波が広村に襲来した後に、梧陵は自身の田にあった藁の山に火をつけて安全な高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとし、速やかに村人を誘導することができた。結果として村人の9割以上を救った(死者30人)。津波から命を救えるかは、情報の伝達の速さが関わっているという教訓を残した。これをもとに作られた物語が『稲むらの火』として知られている(ただし、物語は史実とは一部異なる部分がある。稲むらの火#史実との異同を参照)。 この災害の後、梧陵は破損した橋を修理するなど復旧につとめたほか、当時では最大級の堤防・広村堤防を約4年かけて修造した。この大土木工事は、荒廃した被災地からの住民離散を防ぐ意味を持つとともに、将来再び襲来するであろう津波に備えての防災事業であった。広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て梧陵が私財を投じたものであり、のちに小泉八雲は彼を浜口五兵衛の名で小説化し、「生ける神(A Living God)」と賞賛している。 当時としては巨大な堤防の建設の際に「住民百世の安堵を図る」との言葉を残している。堤防完成から88年後の1946年(昭和21年)、広村を昭和南海地震の津波が襲ったが、この堤防のために被害を減らすことができた。 また、梧陵の活躍をたたえ、広村堤防には感恩碑(1933年建立)が建てられている。広川町では毎年11月に「津波祭」を行い、梧陵の遺徳をしのぶとともに災害の記憶と災害への備えを伝えている。 大規模な津波被害が出た2004年12月のスマトラ島沖地震によって、『稲むらの火』の物語が想起されるとともに、そのモデルとなった史実の濱口梧陵の事績が注目された。歴史情報番組『その時歴史が動いた』(NHK総合、2005年1月12日)では、「百世の安堵をはかれ 安政大地震・奇跡の復興劇」を放送し、広村堤防築造を中心に梧陵の生涯を紹介した。番組中で解説のゲストとして出演した河田惠昭(京都大学防災研究所教授)は、現代のように災害対策に関心が払われていない時代背景において、災害対策としての目的で、公共事業ではなく一民間人の発案と私財をもって広村堤防建設が実施されたことを、非常に画期的と評価している。 2005年のスマトラ沖地震津波後に開かれたASEAN緊急会議に出席した当時の首相・小泉純一郎は、シンガポール代表から濱口梧陵の功績を尋ねられている。 2015年12月4日、国連総会第2委員会は日本を含む142か国の提案により、この逸話のもととなった11月5日を「世界津波の日」に制定することを全会一致で決めた。
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