南の大火
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南の大火 (みなみのたいか) は、1912年(明治45年)1月16日未明に、大阪府大阪市南区で発生した大火[1]。
南区難波新地四番町(現中央区難波四丁目付近)の貸座敷(妓楼)「遊楽館」から出火し、およそ10時間も燃え続けた。
死者4名(消防夫2名を含む)。焼失戸数5200戸[2]。東西1.4km、南北400mに渡って焼失。罹災面積10,946坪(33.3ヘクタール)。
強い西風にあおられて高津入堀川を越えて延焼し、劇場・寄席・貸座敷などの他に、生国魂神社・榎神社・明治病院・高津尋常小学校なども被災した。
焼け跡には、1914年(大正3年)から1915年(大正4年)にかけて大阪市電九条高津線が敷設され、現在の千日前通の一部区間となっている。
関連項目
脚注
- ^ “南の大火 | 檪原家文書 ―大阪の大店の日記―”. library.kwansei.ac.jp. 2021年2月15日閲覧。
- ^ “南の大火と千日前”. 大阪歴史博物館. 2018年3月20日閲覧。
南の大火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 02:59 UTC 版)
1912年(明治45年)1月16日、南の大火(難波大火。cf. 千日前#ミナミの大火後)が発生すると、火の手は圓明寺にも延び、山門を含む伽藍のことごとくが焼失してしまった。大火の後、圓明寺は大阪府中河内郡矢田村(現・大阪府大阪市東住吉区照ケ丘矢田てるがおかやた)へ移転し、現在に到る。一方で、圓明寺移転後の当地域では、かつてあった「圓明寺の黒門」が市場の名前として引き継がれることになり、つまりは大正時代の始まる頃から「黒門市場」と呼ばれるようになった。
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