南の大火とは? わかりやすく解説

南の大火

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/30 06:03 UTC 版)

南の大火 (みなみのたいか) は、1912年明治45年)1月16日未明に、大阪府大阪市南区で発生した大火[1]

南区難波新地四番町(現中央区難波四丁目付近)の貸座敷(妓楼)「遊楽館」から出火し、およそ10時間も燃え続けた。

死者4名(消防夫2名を含む)。焼失戸数5200戸[2]。東西1.4km、南北400mに渡って焼失。罹災面積10,946坪(33.3ヘクタール)。

強い西風にあおられて高津入堀川を越えて延焼し、劇場・寄席・貸座敷などの他に、生国魂神社・榎神社・明治病院・高津尋常小学校なども被災した。

焼け跡には、1914年大正3年)から1915年(大正4年)にかけて大阪市電九条高津線が敷設され、現在の千日前通の一部区間となっている。

関連項目

脚注

  1. ^ 南の大火 | 檪原家文書 ―大阪の大店の日記―”. library.kwansei.ac.jp. 2021年2月15日閲覧。
  2. ^ 南の大火と千日前”. 大阪歴史博物館. 2018年3月20日閲覧。

南の大火

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 02:59 UTC 版)

黒門市場」の記事における「南の大火」の解説

1912年明治45年1月16日、南の大火(難波大火cf. 千日前#ミナミの大火後)が発生すると、火の手圓明寺にも延び山門を含む伽藍ことごとく焼失してしまった。大火の後、圓明寺大阪府中河内郡矢田村現・大阪府大阪市東住吉区照ケ丘矢田てるがおかやた)へ移転し、現在に到る一方で圓明寺移転後当地域では、かつてあった「圓明寺黒門」が市場の名前として引き継がれることになり、つまりは大正時代の始まる頃から「黒門市場」と呼ばれるようになった

※この「南の大火」の解説は、「黒門市場」の解説の一部です。
「南の大火」を含む「黒門市場」の記事については、「黒門市場」の概要を参照ください。

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