作中に登場する、上方を襲った大火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 13:37 UTC 版)
「銀二貫」の記事における「作中に登場する、上方を襲った大火」の解説
南蛮場焼け 延享3年(1746年)。善次郎が13歳のときに奉公先の乾物問屋が被災した。たまたま主人の使いで出ていた善次郎を除き、一家奉公人の全員が死亡。 天満焼け 安永6年(1777年)師走19日、大坂の天満で発生した。48町、5600軒が被災。大坂町民の心のよりどころである天満天神宮も焼けてしまったため、井川屋和助は美濃志摩屋に貸してあった銀2貫を回収し、寄進しようとしていたが、それは仇討ちから鶴乃輔(松吉)を贖うのに使われた。 天明3年の大火 天明3年(1783年)師走19日(前回の天満焼けと同月同日)、大坂の内平野から発生した火が、松屋町筋と谷町筋に挟まれた一体を舐め尽くし、9町1500軒が被災した。堀越町にあった真帆屋も焼けてしまい、嘉平や、真帆を除く家族・奉公人も全員死亡。真帆も顔の半分にやけどを負い、しばらく行方知れずとなる。 天明4年の大火 天明4年(1784年)如月、曾根崎新地から出た火が、堂島川以北の曾根崎を全焼し、13の町が被災した。さらに、凶作が重なって、大坂の町は二重のダメージを受けることとなった。 天明8年の大火 天明8年(1788年)如月1日、京都の宮川町で発生し、その後市内を焼き尽くした。美濃志摩屋も被災し、店と寒天場を失ってしまう。 寛政の南の大火 寛政3年(1791年)神無月10日の早朝に発生し、堀江と島之内を焼き尽くして、87町13000軒あまりを灰にした。真帆とお広も被災した。 寛政の北の大火 寛政4年(1792年)皐月16日に北船場から天満にかけてを襲った。89町10542軒が焼失。天満天神宮も、山城屋も焼けてしまった。
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