ミナミの大火後とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ミナミの大火後の意味・解説 

ミナミの大火後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 00:31 UTC 版)

千日前」の記事における「ミナミの大火後」の解説

1912年明治45年1月16日難波新地4番町で出火したミナミ大火」によって、難波新地から千日前、西高津新地生國魂神社辺りまでが焼失し、この地にあった遊郭移転して消滅した焼け跡には現在の千日前通に当たる大阪市電九条高津線敷設計画持ち上がったものの、繁華街低迷したままであったミナミ壊滅危機瀕して南海鉄道社長近代的なレジャーセンター建設復興呼び水にすることを考え1913年大正2年千日土地建物(略称「千土地」。のちに社名変更し、1954年千土地興行1963年日本ドリーム観光となる)を設立大阪興行界の実力者山川吉太郎に声をかけた。彼は当時活動写真館経営し役者アイドルとして売り出す才能の持ち主でもあった。南海出資で彼は全ての娯楽詰め込んだレジャーセンター構想した新し千日前交差点南西隅に、山川1914年大正3年)に一大娯楽センター楽天地」を建設一躍市内ハイカラ名所となった地上3階建て多く尖塔持ち中央には円形ドーム載せ、夜はイルミネーション彩られていた。館内大劇場二つ小劇場芝居演劇・映画公演し地下にはメリーゴーランドローラースケート場、水族館であった屋上大阪市内を見渡す展望台人気集めた楽天地開業以降付近に映画館演芸場進出し道頓堀肩を並べ娯楽の街へと発展した楽天地は後に、山川吉太郎映画熱中したことと映画制作多額借金抱えたことで廃れ帝国キネマ撮影場の焼失新興キネマへの再編もあり1930年昭和5年)に廃業千土地白井松次郎松竹創業者一人)に買収され1932年跡地収容人数3,000人近い7階建ての南欧建築大阪歌舞伎座」が誕生し初代中村鴈治郎はじめ多く歌舞伎役者舞台踏んだ以降松竹興行による関西歌舞伎定期的に上演され、翌1933年には6階アイススケート場併設劇場南西側飲食店立ち並ぶ路地は「治郎裏」もしくは治郎横丁」(現:精華通り)と呼ばれ賑わった。 1934年松竹1922年結成した松竹楽劇部」を「大阪松竹少女歌劇団」(OSSK) と改称千日前東洋劇場を「大阪劇場」(通称大劇)と改称して、新生OSSKの本拠地とした。大阪劇場実演映画上映二本立て興行を行うようになり、実演はOSSKのレビュー人気歌手歌謡ショウ(OSSKも出演)、映画松竹映画上映していた。1943年OSSKは「大阪松竹歌劇団」(OSK、現:OSK日本歌劇団)と改称し笠置シズ子京マチ子といったスター生み出した

※この「ミナミの大火後」の解説は、「千日前」の解説の一部です。
「ミナミの大火後」を含む「千日前」の記事については、「千日前」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ミナミの大火後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ミナミの大火後」の関連用語

ミナミの大火後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ミナミの大火後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの千日前 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS