誕生から
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:52 UTC 版)
「F・スコット・フィッツジェラルド」の記事における「誕生から」の解説
フィッツジェラルドは1896年9月24日、北西部ミネソタ州のセントポール市ローレル街に生まれた。カトリックを信仰する両親は共にアイルランド系の家系であり、父エドワードはメリーランド州モンゴメリー郡ロックヴィルの出身で家具工場を経営していた。母メアリー(通称モリー)はセントポールの著名な実業家フィリップ・フランシス・マッキラン(Philip Francis McQuillan)の長女であった。名前の由来となったアメリカ国歌の作詞者フランシス・スコット・キーは父方の遠縁にあたる。フィッツジェラルドが生まれる3か月前に二人の女児を流行病で失ったため、フィッツジェラルドは一人息子として育てられることとなる。また、1900年に妹が出生するもすぐに死亡している。 1898年に父の経営する家具工場が倒産したため、エドワードはP&G社のセールスマンとなり、一家はニューヨーク州バッファローに移り住む。1901年にクリフトン・スプレイグの妻となる妹アナベルが出生。1902年、ミス・グッドイヤーズ・スクールに入学するも、仕事の都合により一家がニューヨーク州の各地を転々としたため、1903年ホウリー・エインジェル・コンヴェント、1905年ミス・ナーディンズ・アカデミーと転校を繰り返した。1908年、エドワードがP&G社に解雇されると、セントポールにて食料品卸のブローカーを始める。一家はミネソタ州へと戻り、祖母宅で同居を始めた。フィッツジェラルドは地元の学校セントポール・アカデミーに入学した。1909年から校内誌にて「ナウ・アンド・ゼン」に『レイモンド家証書の謎』『右ハーフバック補欠選手リード』『名誉の借り』『緑色のブラインドのある部屋』といった作品の発表をはじめ、1911年、15歳の時に書いた脚本『レイディJの女』がミス・エリザベス・マゴフィン主宰の演劇グループにて公演がなされた。その後ニュージャージー州のプレップ・スクール、ニューマン・スクールへと入学し1913年、プリンストン大学を受験し、補欠入学した。 大学では、終生の友人であり後に自身の編集者を務めることになるエドマンド・ウィルソンと出会っている。ウィルソンはフィッツジェラルドの1学年上級であった。フィッツジェラルドは大学で引き続き詩作や演劇の脚本を書くなどしていたが、アカデミックな雰囲気に居心地の悪さを感じていたといわれ、1915年には単位不足と病気のため一時大学を休学し、ミネソタへと帰省している。さらに1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると大学を中退し、陸軍へと入隊した。
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