誕生〜歌謡曲時代とは? わかりやすく解説

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誕生〜歌謡曲時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:54 UTC 版)

カルメン・マキ」の記事における「誕生〜歌謡曲時代」の解説

アイルランド人ユダヤ人血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に神奈川県鎌倉市生まれる。生まれて間もなく、父が帰国。母は肺結核患っていたため、マキとともに日本残った母方の祖父母がいる東京都大田区で育つ。 1968年香蘭女学校高等学校2年次中退イラストレーター役者になろうかと考えていた時期に、詩人寺山修司主宰していた劇団天井桟敷」の舞台青ひげ』にたまたま友人に連れられていった。その舞台感銘受けた彼女は即入団決意。同じ年の8月新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台。この時、CBSソニー関係者の目に止まり歌手契約芸名の「カルメン・マキ」は舞台練習中にたまたま思いいたもの。 翌1969年に「時には母のない子のように」(作詞寺山修司作曲田中未知)でデビュー17歳とは思えない妖艶な雰囲気歌唱力哀愁のある歌いっぷりが話題呼んだ。「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの、累計ミリオンセラー大ヒット。この曲で第20回NHK紅白歌合戦出場したステージにはジーンズ姿で登場し司会者に「ジーパンステージ衣装になる時代が来ました」と紹介された。当時の曲は、作曲武満徹クニ河内が、作詞前述寺山修司谷川俊太郎が、手がけた。 これ以降個性派歌手として活動し、6シングル3枚アルバムリリースする前述の「時には母のない子のように」の他にも「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争知らないと言ったヒット曲出した1970年写真集篠山紀信NUDE』(篠山紀信)でヌード披露

※この「誕生〜歌謡曲時代」の解説は、「カルメン・マキ」の解説の一部です。
「誕生〜歌謡曲時代」を含む「カルメン・マキ」の記事については、「カルメン・マキ」の概要を参照ください。

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