誕生〜歌謡曲時代
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アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に神奈川県鎌倉市で生まれる。生まれて間もなく、父が帰国。母は肺結核を患っていたため、マキとともに日本に残った。母方の祖父母がいる東京都大田区で育つ。 1968年、香蘭女学校高等学校を2年次で中退。イラストレーターか役者になろうかと考えていた時期に、詩人の寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』にたまたま友人に連れられていった。その舞台に感銘を受けた彼女は即入団を決意。同じ年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台。この時、CBSソニー関係者の目に止まり、歌手契約。芸名の「カルメン・マキ」は舞台の練習中にたまたま思いついたもの。 翌1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー。17歳とは思えない妖艶な雰囲気、歌唱力、哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの、累計でミリオンセラーの大ヒット。この曲で第20回NHK紅白歌合戦に出場した。ステージにはジーンズ姿で登場し、司会者に「ジーパンもステージ衣装になる時代が来ました」と紹介された。当時の曲は、作曲は武満徹やクニ河内が、作詞は前述の寺山修司や谷川俊太郎が、手がけた。 これ以降も個性派歌手として活動し、6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースする。前述の「時には母のない子のように」の他にも「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争は知らない」と言ったヒット曲を出した。 1970年、写真集『篠山紀信集 NUDE』(篠山紀信)でヌードを披露。
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