誕生〜青年期
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文政10年(1827年)、長岡城下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格であったといわれている。12、3歳の頃、それぞれに師匠をつけられて剣術や馬術などの武芸を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わないどころか口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から始末に負えないと厄介払いされるほどであった。その後、藩校の崇徳館で儒学を学び始め、その際、都講の高野松陰の影響で陽明学に傾倒していった。 天保13年(1842年)に元服、秋義を名乗る。信堅系の河井家の当主は元服すると代々通称として「代右衛門」を世襲したが、河井継之助秋義は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いた。17歳の時、継之助は鶏を裂いて王陽明を祀り、補国を任とすべきこと、すなわち藩を支える名臣になることを誓う。その翌年、城下の火災により継之助の家宅も焼失したため、現在跡地のある家に移り住む。 嘉永3年(1850年)に梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹・すがと結婚する。なお、梛野氏は安政の藩政改革を主導した村松忠次右衛門の母方であり、『武鑑』でも藩主嗣子・牧野忠訓の附役に梛野弥五左衛門が見えるので、姉婿・佐野与惣左衛門(武鑑で附役になっているのが確認できる)同様にこの藩主側近一族との縁組が継之助の出世にプラスに作用した可能性は高い。 継之助は青年時代から主に日本・中国(宋・明時代)の儒学者・哲学者の語録や明・清時代の奏議書の類の本をよく写本した。また、読書法についても後に鵜殿団次郎とそのあり方について議論した際、多読を良しとする鵜殿に対し、継之助は精読を主張したという。こうした書物に対する姿勢は後の遊学の際でも一貫していた。 さらにこの時期には小山良運(130石)や花輪馨之進(200石、のち奉行本役)、三間市之進(350石、のち奉行役加判)、三島億二郎(37石、藩校助教授、のち目付格、代官)といった同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせ、意気を通じ合わせていた。このグループは周囲からは「桶党」(水を漏らさぬほど結束力が固いという意)と呼ばれていたらしく、慶応期藩政改革の際には村松忠治右衛門(70石、安政期藩政改革の主導者、のち奉行格、勘定頭・郡奉行ほか諸奉行兼帯。継之助の妻の縁者)や植田十兵衛(200石、のち郡奉行・町奉行兼帯)らとともに次第に要職に就き、継之助を中心とする改革推進派の主要メンバーとなった。
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誕生〜青年期
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「モルタザー・モタッハリー」の記事における「誕生〜青年期」の解説
モタッハリーは1919年、マシュハドのホラーサーン州の南に位置するファリーマーンという村で次男として生まれた。彼の家系は宗教学者であった。 モタッハリーの祖父にあたるアリーは、19世紀末にマシュハドからファリーマーンに移住してきた。モタッハリーの父親は非常に正直な人物で、特に金銭には厳格であった。 モタッハリーは、5歳頃に書物に興味を示し始め、父の書斎にこっそり入り込んでいた。他の子供のように子供らしい遊びをすることがなかったので、両親は心配していたという。 10歳になると、伝統的なイスラームの学問を学び始めた。そして13歳の時に、長男とともにマシュハドのエブダール・ハーン宗教学校という学校で2年間宗教の学生として修学した。 この1930年代のイランは、1979年に崩壊したパフラヴィー朝の創始者、レザー・シャーの時代であった。この人物は統治の初期においては、イラン社会に隠然たる影響力を持つウラマーの力を利用する政策を採ったものの、いったん自らの権力の基盤が据えられたとするや否や、イラン民族主義の名のもとに反イスラームの立場を鮮明にした。女性のチャードルの禁止、洋服の採用などが典型的な政策であった。八代目イマームの廟があり、国内最大の聖地マシュハドにおいても、その影響がみられた。 モタッハリーはマシュハドに2年間滞在した後、故郷のファリーマーンに戻った。故郷に戻ってからは読書に時間を費やした。1936または1937年、17〜18になった彼は、当時シーア派世界で注目を受け始めていた宗教研究の中心地、ゴムの町へ行く決心をした。この町はシーア派世界で特異な位置を占めてきた。 モタッハリーはこの町で宗教的学問を研鑽する決意を固めたが、周囲はこれに反対した。当時のイランはレザー・シャーの反宗教的、民族主義的政策によって、宗教者として身を立てることが極めて困難であったからである。当時は、マスジェドは閉鎖され、宗教家であった者も職業を変え、政府の役人になったりするような時代であった。特に、母親は息子にファリーマーンを離れて欲しくなかった。
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