誕生〜角界入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 06:00 UTC 版)
1964年10月14日に東京の三軒茶屋の小児科病院で長男として生まれる。未熟児として生まれ、黄疸・小児喘息が出ていて、交換輸血を3回した。三歳の時に母方の実家である鹿児島県へ転居した。父親は離島の閉鎖的な生活に馴染めず別居をしたことで、長男として3歳年下の弟などの世話をして母親の手助けをしていた。母親からは「泣いては駄目。けど・でも・たら・ればの言い訳はするな。」などと教育された。 小学校4年生の頃、徳之島町立警察署内剣道部に所属し、島大会で優勝、奄美大島群大会で優勝、鹿児島県大会にも出場した。徳之島町立亀津中学校では、中学2年の時にバレーボール部に入部し、島大会や大島郡大会で優勝、鹿児島県大会でも活躍した。その頃、陸上競技でも島大会で200mの記録も保持していた。中学3年の時には、学校内の持久走大会で1位になっている。 高等学校へ進学する予定だったが、母親の知人が相撲部屋の後援会の会員で、高砂部屋に入門の話をしたが、「体が小さく、もっと大きくなってからいらっしゃいね」と断られた。次に、まだできたばかりの大島部屋に補充要員として面接もせずに入門した。その時、母親から「あんたは男でしょ、人生かけてらっしゃい、3年我慢して、もしだめだったらちゃんこ屋でもやればいいじゃないの」と言われ、本人は男としての役目だと思い入門を決意した。しかし、本人は相撲を取ったこともなく、興味もなかった。 入門時は身長178cm、体重58kgという小柄な体格で、新弟子検査日の1時間前の体重は65kgしかなく、豆腐・うどん・餅・おじや、最後に水で体重を増やし、検査規定の70kg(75kgとも伝わる)ぎりぎりで通過した。1980年5月場所にて初土俵を踏み、翌7月場所では序ノ口優勝をした。優勝の賞金は、母親へ中古だったが指輪をプレゼントする資金の一部にした。1988年7月場所に新十両昇進。身長180cm、体重88kgで、十両3場所連続で勝ち越した。1989年翌1月場所に新入幕を果たした。その時は、9勝を挙げて初の三賞となる敢闘賞を受賞した。そのときの体重は98kgだった。 100Kgあまりの軽量だが運動神経が良く、立合いに頭で当たってから相手に食い付く正攻法の取り口で、右を差してから廻しを取ると粘り強かった。さらに投げや張り手もあることから「南海のハブ」という愛称が付けられた。入幕後は細い身体ながら、どんな対戦相手でも逃げずに真っ向勝負を挑んだことで負傷が多かったので怪我のデパートとも言われていた。1990年3月場所2日目の対千代の富士戦では1000勝フィーバーで盛り上がる中で996勝目の一番で、取り直しとなる大熱戦を演じた結果、千代の富士が寄り切りで勝利し、これが両者の唯一の対戦となった。 1992年7月場所では横綱が不在、大関・曙が全休していたが、出場した小錦・霧島を破る活躍を見せて初の殊勲賞を受賞した。同年9月場所では小結昇進、8勝7敗と勝ち越して2度目の敢闘賞を受賞した。1993年3月場所の東前頭2枚目で迎えた6日目に、新横綱だった曙太郎を下手捻りで破り、自身唯一の金星を挙げた。同場所13日目の対久島海戦では 立合いの張り手で倒した。脳震盪を起こし意識を奪い、勢いよく土俵に両膝を付いたが、その際に両膝じん帯を損傷させて久島海は途中休場になった。この場所を9勝6敗と勝ち越して3度目の殊勲賞を受賞した上に三役返り咲きを決定的にするも、対戦相手の久島海は当時西前頭2枚目で勝ち越せば旭道山同様に新小結の可能性があったが、結果的にこの膝の怪我が尾を引いて、久島海は現役引退するまでに一度も三役には昇進できなかった。 これに対し、当時の出羽海理事長は、関取衆が集まる力士会の中で、大翔鳳・貴闘力・旭道山の3人を名指しし「おまえたちの相撲は、敢闘精神に値するが品格に値しないから自粛しろ」と忠告したが、旭道山はこれを聞き入れず、その後も再び久島海に張り手を決め、大島親方が出羽海理事長から呼びだされ注意を受ける事態となった。その後は張り手を封印した。 師匠の大島がモンゴルから200人弱の中から 旭鷲山、旭天鵬、旭嵐山、旭獅子、旭鷹、旭雪山ら 6人をスカウトして来日させた。しかし、正式な入門前だからと客人扱いしていたことで彼らは大島親方の気持ちがわからず、指導に耳を貸さなくなっていた。そこで6人を預かり、他の若い衆と同じ稽古をしたところ、稽古についていけず、そのうち5人はモンゴル大使館に逃げ込んだ。ここからモンゴル人力士たちの歴史が始まった。
※この「誕生〜角界入り」の解説は、「旭道山和泰」の解説の一部です。
「誕生〜角界入り」を含む「旭道山和泰」の記事については、「旭道山和泰」の概要を参照ください。
- 誕生〜角界入りのページへのリンク