誕生から18世紀まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/31 19:00 UTC 版)
「サン=ルイ (オー=ラン県)」の記事における「誕生から18世紀まで」の解説
13世紀から17世紀まで、バーゼルとケムスの間には、小さな漁村のアルト=フュニンゲン(Alt-Hüningen、またの名をアルトドルフ Altdorf。元のユナング Huningue)、そしてミシェルフェルダンの2か所しか村落がなく、クマとオオカミが生息するアルト(Hardt)の森がライン川のほとりまで広がっていた。1680年、太陽王の命令でヴォーバンと技師ジャック・タラドがユナングに要塞を建設することになり、要塞周囲の斜堤を築くため、要塞建設地と上流のバーゼルの間に位置するユナングの村落が取り壊されることになった。村落の住民のほとんどは1km半離れた場所に移住し、新たな村を再建することになった。村の正式名称はル・ブール・ヌフ・ドゥスト(le Bourg Neuf d'Aoust)であったが、すぐにヴィラージュ・ヌフ・デュ・グランデュナング(Village-Neuf du Grand-Huningue)と呼ばれるようになり、その後単にヴィラージュ・ヌフ(またはノイドルフ Neudorf)と呼ばれるようになった。 しかしながら住民の一部が、要塞建設の労働者の何人かとともに、パリへの道を建設した。バーゼルのサン・ジャン門から伸びる土手道を横切るところにその道があって、近くには小さな礼拝堂と馬の中継場所があった。この場所は現在、サン=ルイ教会の前にあたる。こうしてサン=ルイの集落が生まれた。1684年、ルイ14世がサン=ルイの名を集落に与えた時、そこには一か所の税関と、12軒ほどの非常に低い家が道路沿いに建っていた。こうした住居に住むのは、タバコ担当者、すなわち税関職員であった。集落は素晴らしい環境にあった。交差路と国境に近いことの両方が、集落の成長の出発点だった。サン=ルイの成長は初め遅かったが、一定だった。アンシャン・レジーム体制の終わる1789年には、この村には約600人の住民と、500mの通りがあった。しかしながら村落はヴィラージュ=ヌフの付録でしかなかった。ヴィラージュ=ヌフの自治体と教区司祭に依存していたからである。1793年10月31日に国民公会が宣言した、国内の関税障壁の廃止が、サン=ルイの真の躍進の始まりとなった。 フランス革命はサン=ルイに成功のカギを2つ与えた。1つは1791年の国家税関の確立である。サン=ルイは税関の面でも軍事の面でも、国境地帯となった。2つは、1793年10月22日、県の総裁がサン=ルイとミシェルフェルダンにコミューンの自治権を付与した。2つの村は合併して、ブール=リーブル(Bourg-Libre)を名乗った。
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