誕生からウィーン時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/30 14:54 UTC 版)
「イグナーツ・モシェレス」の記事における「誕生からウィーン時代」の解説
プラハで、裕福なユダヤ系の商人の息子として生まれた。元々の名前はイサーク (Isaac) であった。家庭ではドイツ語を使用していた。父親はギターの演奏ができ、息子の誰かを音楽家に育てあげたいと熱望していた。そこで、父親は最初にイグナーツの姉妹にその希望を託そうとしたが、彼女がレッスンを嫌がったためイグナーツが代わりにピアノを習うことになった。イグナーツがすぐさまルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの革新的なピアノ音楽への情熱に目覚めてしまったため、プラハ音楽院で彼の指導に携わっていたモーツァルト派のベドルジフ・ディヴィシュ・ヴェベルは、彼を押しとどめてヨハン・ゼバスティアン・バッハやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ムツィオ・クレメンティに集中させるようにした。彼は14歳で自作の協奏曲の公演を行っている。 父親を早くに亡くした後、モシェレスは1808年にウィーンに移り住んだが、その時すでに彼の音楽的才能はヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに対位法を、アントニオ・サリエリに作曲を習うに値するものであった。この頃、彼はイサークからイグナーツに改名している。彼は1814年から1815年にかけ、ウィーンにおいて牽引役となるヴィルトゥオーゾであった。この頃に書かれたのが、技巧曲であるピアノとオーケストラのための「アレクサンダー変奏曲」作品32であり、後に彼はこの曲をヨーロッパ中で演奏して回っている。ウィーンにおいて彼はジャコモ・マイヤベーアと親交を結び(この時はまだ作曲家としてではなく、ピアノのヴィルトゥオーゾとしてであった)、二人の即興による協演は大絶賛を浴びた。また、モシェレスはヨハン・ネポムク・フンメルやフリードリヒ・カルクブレンナーとも親しかった。1820年代のヴィルトゥオーゾの中でも、フンメル、カルクブレンナー、ヨハン・バプティスト・クラーマー、アンリ・エルツ、そしてカール・マリア・フォン・ウェーバーはモシェレスの最も有名なライバルだった。 ウィーン時代に、モシェレスは憧れの存在であったベートーヴェンに会うことができた。若いモシェレスの才能にいたく感激したベートーヴェンは、Artariaから出版されることになっていた自作のオペラ『フィデリオ』のピアノ譜に関して、モシェレスに一任することにした。モシェレスはこの曲の草稿の最後に "Fine mit gottes Hülfe"(神の助けを得て終わる)という文句を書き足した。これはベートーヴェンの与り知らぬものであったが、彼はモシェレスの改変を評価し、さらに "O Mensch, hilf dir selber"(おお人よ、汝自身を助けよ)と付け加えた。モシェレスとベートーヴェンとの間の良好な関係は、ベートーヴェンの死に至るまで互いにとって重要なものであった。
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